「アドゥレセンスの向こう側」 川上とも子×幾原邦彦 対談
|
- 2009/02/19(Thu) -
|
川上とも子(天上ウテナ役) VS 幾原邦彦(監督)
徳間書店「Voice ANIMAGE」 vol.27より 秀麗で魅力的なキャラクター、決闘シーンで効果的に流れる決闘曲…。今までのアニメーションにない奇抜な演出とストーリーでファンを惹きつけた『少女革命ウテナ』が劇場版映画となってこの夏帰ってくる。キャラクターをリニューアルし、TV版をさらにパワーアップさせての映画化ということでみんなの劇場版『ウテナ』に対する期待はかなり大きいはず。 TVシリーズ終了後も川上さんのアルバム制作を通して何かと交流があった幾原邦彦監督と主役の天上ウテナを演じた川上とも子さん。 ――川上さんは『ウテナ』という作品を越えて、1stアルバムのスーパーバイザー役を幾原監督にお願いしたわけですが、その理由は? 川上:そうですね、監督がオーディションでウテナ役に私を選んでくれたっていう信頼感があったからじゃないでしょうか。私は主役を演じるのは『ウテナ』が初めてなんですよ。 それまでは主人公のそばにいて支えるサブキャラが多かったんですけど、初めて私を話の芯になる役柄を持ってきてくれたのは監督だったから…。 ――川上さんを主人公のウテナ役に抜擢したのは、キャラクターと似ていた所があったからですか? 幾原:ウテナとは似てないですねぇ。 川上:殆ど似てないんだけど、似てるところが1ヶ所だけあって…バカ正直な所がメチャメチャ似てるんですよ。その他の部分は、自分以上に良く見せようとか考えないでウテナのキャラクターを一緒に演じて作っていきました。 ――幾原監督が感じる声優としての川上さんの魅力はなんですか? 幾原:さっき、バカ正直な所がウテナと似てるって言っていたけど、一寸だけ訂正するとバカ正直というよりはバカな所が魅力かな(笑)。 川上:ちょっと待ってくださいよー。「魅力は?」って聞かれたんですから誉めないと。 幾原:魅力…、やっぱりバカな所かな(笑)。仕事に対して無心な所がいいですよね。あんまりいやらしい部分が無いからね。 川上:もっとさー、声がいいとかさ。 幾原:あっ、声がいいよね(笑)。 川上:あ゛ーっ。わざとらしい! ――役を演じるにあたって幾原監督の方から演技指導はありましたか? 川上:先ずは「自分でやりたいようにやって」って言われるので、演技指導は後からでした。 幾原:TVとかは長丁場な仕事なんで、主役の場合は極力本人のパーソナリティがにじんでた方がいい。どんな作品でもパーソナリティが上手く出ている方がいいと思うから、先ずは本人のパーソナリティを確認する意味でも地の部分を聞いてみる。あとは微妙なニュアンスとかを注文して自分の趣味に合わしてく。 ――幾原監督の声優の趣味とは? 幾原:大したことじゃないんだけど、自分が普段しゃべっている様にしゃべらすとか…。個々のキャラクターには、どこかしら自分(幾原監督自身)のパーソナリティも入ってるんで、「僕ならこういう場面では、こう言う」という風な要求はしますね。でも、完全に僕が言う通りに演技されてもしょうがないんで…。 つまり、せっかく自分以外の他人が演じているんだから、その役者のパーソナリティもキャラクターに反映された方が面白いと思うんだよね。だから例えば、川上とも子本人のパーソナリティと僕の注文が合わさることによって、オリジナリティが出れば一番いい。 ――監督がクリエイターとして作品を作る中での役割で、声優が占めるパーセンテージはどれくらいですか? 幾原:何パーセントとかは具体的に言えないけど(笑)、重要だよ。まあ昔は俺も神経質だった所があって、(声優の演技の)一挙手一投足が気になるというか、全てにおいて自分のビジョン通りにいかないと腹が立つっていうことがあったんだけど、最近はかなりさっぱりしている(笑)。 俺自身に(声優の)個々のパーソナリティにまかせる余裕が自分の中で出来たからかな。うん、以前はかなりこだわってたよね。ただ、今にして思うと…完全に作りこませた演技なんかは温かみがなくなってくるからホッとしない。そういう意味では適度にその声優個人のパーソナリティが作品に出ていることによって、作り込み過ぎちゃっている部分をポピュラーに引き戻せるんじゃないかな。昔はアドリブが大嫌いだったのに(笑)。 ――声優のクリエイティビティは、どこに一番表現されると思いますか? 幾原:やっぱり、パーソナリティじゃないかな。実は「いわゆる可愛い声」ってのは存在しない筈なんだけどね。にも関わらず、最近の若い子は「いわゆる可愛い声」っていうのが上手いんだよね。まるで「可愛い声の定番」というのがあって、それを演じてます…と言わんばかりに上手いんだよ。そういう子達って、みんな歳が近いから声のキーも近い。だから、そこで横並びにした時に個性が見え辛いというか…そういう意味ではやっぱり本人のパーソナリティっていうのをいかに声として表現化させていくかっていうところが勝負になる。 パーソナリティを上手く声に表現するのは難しいけど、やっぱりキャリアを積んで残ってる人っていうのは自分のパーソナリティを抽出して画面にのせるっていうのが上手いよね。 ――ということは、オーディションで見る部分はやはりパーソナリティ? 幾原:一度きりのオーディションでそこまではなかなか拾えないんだけど、チャンスは誰にでもあったりするんだよ。残っている人と消えちゃう人の差はそれを知ってるかどうか。誰にでも長くやってると1回や2回は絶対チャンスは有るんだよ。 ――川上さんはそのチャンスを生かして一線で活躍しているわけですが、子供の頃、声優に憧れたことはありましたか? 川上:私は人を助ける仕事をしたいなって子供の時に思って・・・医者になりたかったんですよ。勉強って覚えればいいとか、やればいいだけの話なので、頭がいいのと関係がないじゃないですか。だから、医者は努力さえすれば誰でもなれると思うんですよ。 幾原:そう?凄いことを言う(笑)。 川上:勉強するのが嫌いな人はしょうがないけれど、私は勉強が嫌いじゃなかったから努力すれば(医者に)なれると思うじゃないですか。 幾原:俺は逆なんだよ。俺はやりたくないことは出来ない奴だったから、どんどんどんどん自分のやれることが少なくなるのね。どういうことかって言うと、やれることっていうのはモチベーションが自分の中で湧くから、トライしてみようかって頑張る。でも、歳を取れば取るほど、そのモチベーションの湧くものが限定されてくるんだよね。 子供の頃は無知だから八方色んなことをやるんだけど、1つ1つ歳を取っていく毎にいくら何でもこの方向性では将来自分の得にならないだろうっていうのが色んな情報で分かって来るんだよね。 小学校の高学年くらいになると「俺の将来にプロ野球選手っていうのは無いだろう」っていうことは分かっちゃうわけ。川上とは逆に「俺に医者っていうのは無いだろう」とかっていうのは、かなり早い時期に分かっていた。だから歳を取れば取るほど、どんどん将来やれると思えることの間口が狭くなってくる。 極端に言うと、普通の人はたぶん「自分の将来はプロ野球選手じゃないだろう」って分かっていても、草野球したりするでしょう。しかも、それをしながら他の勉強もしてたりする。「英語は関係無いだろう、俺の人生には・・・」って思っていてもちょっと勉強したりするでしょう。俺そういうのが全然出来なかった(笑)。 ――1か0かみたいな。 幾原:そう。「有るか無い」かしかないみたいな感じで・・・。それが歳を取るごとに極端になってきて、高校くらいのころには毎日死のうかと思って(笑)。もう駄目だ、俺は社会人になれないと思ってたからね。 ――本当に極端ですね(笑)。 幾原:ただ、可能性があることだけはやった。カメラマンのアシスタントとかは好きだから学生の頃やったんだけど・・・自分の可能性として「こういう将来はありえる」と思えたことはのめり込んだ。 川上:私は「医者になるのは駄目じゃん」ってあきらめた時に、他に何で人を助けられるかなって思ったら、気持ちを助ければ命を助けることにつながるんじゃないかと思ったんです。それで、何かないかなと考えた時に、ふと自分の父親が死んで子供ながらに「人生終わりだ」と思って落ち込んだことを思い出したんですよ。その時にTVがついててやっていたアニメを見て救われて・・・。そのアニメの主人公はもっと大変そうだったから(笑)。 ――作品は何だったんですか? 川上:『六神合体ゴッドマーズ』っていうのがあって・・・私は兄弟と戦うこともないし両親は本当の両親だったしとか・・・何か救われる気持ちがあったんですよ。だから、医者以外で命を救うような仕事って声優しか思い浮かばなかったんですよ。 幾原:偉いなあ。 川上:それで「あの職業は声優だった。あれをやりたい!」って思ってバオバブの養成所に入ったんです。やっているうちに、お芝居とかはやはり心を救うものだと思って舞台をずっとやって・・・。 ――医者ではなかったけど気持ちを救える仕事につけたという感じですか? 川上:そうですね、今では自分の職業に自信が持ててきました。 ――今回の映画タイトルに「アドゥレセンス黙示録」というのが掲げられていますが、幾原監督は思春期の頃、どんな子供だったんですか? 幾原:暗かったですよ(笑)。 ――どんなことをしていたんですか? 幾原:何もしてなかったですよ。 ――学生時代クラブとかは? 幾原:多少、剣道やってました。でもやっぱり自分の将来に剣道はない・・・と(笑)。だからじゃないけど、ともかく暗かったです(笑)。 ――アニメーションに興味はあったんですか? 幾原:好きでしたよ。でも、仕事にしようとは思わなかった。 ――それがどうして、この世界に? 幾原:知らなかったからじゃないですか。知ってたらやらなかった。 川上:でも、それがどうして? 幾原:クリエイティブな仕事をしたかったのは間違いなくて・・・実写でも良いんだけど、実際、実写もやろうと思った時期があったんだけど怖かったんだよねやっぱり。実写って噂だけで怖いじゃない。すごい徒弟制みたいなのがあって、サード(第3助監督)から始まってファースト(第1助監督)になれるまで20年かかるなんて恐ろしい話を聞いたりするから(笑)。とてもじゃないけどやれそうにないって思った。 当時はグラフィックデザイナーになろうと思っていて。僕が十代だった'80年代前半っていうのは空前の広告ブームだったんだよね。糸井重里さんから始まって日比野克彦さんとかが大ブームの頃で、「これからはマスメディアだ!」っていうんで僕もグラフィックをやりたくて・・・。で、広告代理店のアルバイトをちょっとやったんだけど、やっぱり怖かったんだよ、広告デザイナーの世界も(笑)。すっかりビビっちゃって(笑)。 ――それと比べてアニメーションの世界はどうでしたか? 幾原:知らなかったから、楽そうだなって思った。広告でバイトをしている時、何にビビったかって言うと、個性のぶつかり合い。仕事なんて待ってたら全然良いのが取れないし、各人のパーソナリティのせめぎ合いに眩暈がしたというか・・・。 ――実際、アニメーションの仕事をやってみて広告の仕事よりはやりやすかったですか? 幾原:いやぁ、やったらしんどかったです。しんどかったけど、それでもどこか楽だと思えた。当初、アニメーションの業界はみんなおとなしくて、パーソナリティのぶつかり合いっていうのが無いなと思った。 現場は苛酷なんだけど苛酷な現場の中で割と自己主張しない人が多いというか・・・。ここなら自分のパーソナリティを出すの簡単だと思えた。チャンス!と(笑)。もっとも実際は大変だったんだけど(笑)。 アニメーションの現場って自己主張が強いとバッシングを受けるんですよ。それは俺にとってはショックだったね。それまで意識していた広告の世界は自己主張がない奴は徹底的に蹴落とされるというか、足の引っ張り合いは日常茶飯事という世界だったから。 アニメーションの場合は因習っぽい世界というか、徒弟制が強い世界というか、目上・先輩をたてる世界だからそこら辺で「あれっ」っていうのはあったね。よく考えたらアニメーションだって映画システムの中で作ってるんだから当たり前だったんだけどね。でも、その自己主張のなさのギャップには驚いた。 辛いと言えばどちらも辛かったけど、肉体的に辛かったと言えばアニメーションの方が辛かったね。ただ、肉体的な辛さっていうのは耐えられるからあまり辛いに入らない。それに比べると、メンタルな部分の方がくるね、その報われなさ加減というか(笑)。毎日寝なかったとかっていう苦痛は若けりゃ全然平気じゃない? 川上:本当に監督がおっしゃる通りで、肉体的な辛さは全然辛くないんですよ。ただメンタルな部分はやっぱり我慢し切れないところがありますね。 メンタルの方は我慢すれば良いんだと思っていたんだけど、それだと結局体は壊れるし・・・。私達って肉体を使っている仕事だから、声が変わると仕事が出来ないんですよ。 だからメンタルな部分もクリアにしていかないと仕事にならないと思ったので、はまったものを外して解決する方法を見付けるようになりました。 ――考え方を変えて…。 川上:私は今現在そういう思春期が続いてる状態なんで・・・。思春期の中を進み続けつつも、先が見えてきたかなって思います。暗中模索の中の思春期を突き進むんじゃなくて、やっとちょっと光が見えて来たかもという所に来たかなと、ここ2・3週間で(笑)。 だから未だに思春期やってます。情けないけど・・・いいじゃん、子供時代が長くたってさぁ。分かってない大人も沢山いるじゃないですか。でも、それを分からないままウヤムヤに大人になってしまって・・・年とかじゃないと思うんですよ。中身の問題だからとことん突き詰めて大人になるまで子供でいろよって、嘘ついて大人になるなよって思いますね。自分は大人だっていうのを演じて装ってカバーするけど、それは結局自分が子供だって言うことを隠しているだけだから、だったら自分が子供だっていうことを出せる人の方がよっぽど私は大人だって思います。 それを分かる人だけが大人になるまで子供のままで苦しみ続ければ良いと思う。子供って苦しいんですよ。嘘をついて大人になっちゃって、自分は実は子供なんだけど大人のフリしている方がずっと楽ですもん。 だから私は「アドゥレセンス(思春期)」という言葉がすごく気に入ってます。最近よく考えるのはそういうことです。 ――『ウテナ』は今までのアニメ史上例を見ない個性的な作品ですがTV版・劇場版を通して『少女革命ウテナ』を作った感想は? 幾原:今回の仕事は今までと違って足場のない仕事だったので責任感というのはかなりありましたね。とにかくリスクがかなりあったんですけどね。作品を世に送り出すこと自体がすごいリスクだったので・・・。どうせリスクがあるんだったら好きなことをやった方がいいやって、遊び切った方がいいやって思いました。 まあ、そう思った言葉の裏腹にものすごく大多数の人に僕と同じだけのリスクを負わせてるわけです。だから、完全に遊び切るっていうのが難しいのと、そこでのせめぎ合いでいかに自分に正直であるかっていうしんどさもあった。正直に生きたいのは山々だけど、自分だけじゃなく大多数の人にリスクを負わせてるわけだから、せめて常識的な仕事をしなきゃいけない。そこらへんの兼ね合いがしんどかった。 本当のことを言うとアニメーションはどうでもいいんだよね、俺は。実は作品もどうでも良くって、一番大事なのは自分なんだよね。要は大人の仕事をしたいんですよ。「させられているんではなくて、してるんだ」って思えるような事ってあまりないでしょ。 正直言って、今もって「そうせざるを得ない」なんて部分を引きずりながら仕事をしてる。だから全てにおいて「俺は、やりたいからやっている」って言えるような仕事ができるようになったとき、多分自分は大人になれるんだろうな・・・と思っている。そういう状況を目指しているだけ。 そういう意味で言っちゃうとアニメーションっていうのは道具なんだよね。自分がそうなるための・・・。 自分であるためにアニメーションの仕事をしている幾原監督と、人の気持ちを救うために声優という仕事を選んだ川上さん。2人が大人になるための“アドゥレセンス”は今も続いているのかもしれない・・・。 スポンサーサイト
|
幾原邦彦×竹宮恵子 『ウテナ』対談
|
- 2008/05/11(Sun) -
|
幾原邦彦(監督) VS 竹宮恵子(漫画家)
マガジン・マガジン「小説JUNE」 98年5月号より 「ウテナ」といえばまず目を奪うのは不思議でシュールな演出。空中に浮かぶ城、突然あらわれるカンガルー、影絵少女……どことなく70年代の前衛演劇に通じるムードを感じさせてもくれます。 寺山さんの演劇・天井桟敷の作曲家J.A.シーザーによる音楽もはまっていました。 生前の寺山さんと交流のあった竹宮先生も、決闘シーンのバックに流れるシーザーの楽曲に「『鉄腕アトム』のタイトルバック曲をはじめて聴いたときみたいに「これはクる!」って感じたものがあった」そうで、仕事場のBGMに「ウテナ」のサントラを愛用していたことも。 竹宮:「ウテナ」で使われているシーザーさんの楽曲はアニメらしく強い明るい感じですよね。ふだんのシーザーの、ちょっと寺山さんの跡を継いでるようなイメージがなくて、強くて張りがあって良かったなと。「なんだこういうふうにやったらまた全然違う感じがするんじゃないか」って。 幾原:そこらへんを気をつけて作ったというか。まあ、名前を出すのもあれなんですけど、寺山さんって、死んでから、シーザーさんも含めてどんどん文学化されていったんで、もうちょっと、寺山さんの好きなところで言うと“キッチュ”っていうか、楽しいものにしていきたいなあ、と。 竹宮:カフカ(※フランツ・カフカ)なんかでも、なんであんな重たいまんまにしておくのかなあ。すごいおかしいんですよ、カフカって。とんでる。 ――朗読をみんな笑って聴いてたという。 竹宮:笑えますよ、すごく。どうして深刻なものとして扱うんだろうなあ、時代が早すぎたのね、って感じがするし。それは寺山さんも同じなんじゃないかな。もっととんでしまっていいんじゃないかなって。私は歌が一番好きなんですよ。 幾原:詩がいいですよね。 竹宮:詩とか歌とか、投げ捨てるような感じがあるじゃない。 幾原:カッコイイですよね。でも、それ故に僕には寺山さんはちょっと分かりやすすぎて。これは作り手になっちゃったからそうなんでしょうけど、あまりにも完成しちゃってるから、近づきたいと思わなくなっちゃったんですよね。 ――「ウテナ」は宝塚との融合みたいな。 幾原:いや、そういうのは全然ないです。宝塚にしても少女マンガにしても、僕がマジにやればやるほどパロディになって行っちゃう。なんとかパロディにしないで済む方法がないかなと考えてシーザーさんとかでてくるんです。単純に宝塚的にしちゃうと、どんどん“宝塚のようなもの”になって行く。それが怖かったんですよね。 ――それで心理的なものに。 幾原:それも突っ込んで行くとパロディみたいになっちゃうんですよね。それこそJUNEのパロディみたいに。そういう意味でキッチュにしたいなと。 竹宮:最初は「何、このとんでもないアニメは」って笑って見られるようなところもあったし。で、まとめて見ると「けっこう重いじゃないか」みたいな。 ―― 一応、女の子の視聴者を想定して作られたんですか? 幾原:入口はそうでしたね。企画段階では、スポンサーやメーカーの方に、少女マンガだって言わないと理解してもらえないので。でも、いざ制作をスタートしたら、僕の中ではそんなことどうでも良かったです。 ――じゃあ、さいとうちほさん(キャラクター原案とマンガ版を担当)が少女マンガにふみとどまっていたという。 幾原:っていうかね、さいとう先生がいると僕、楽なんですよ。いなかったら、僕が少女マンガのパロディしないといけなくなっちゃって、そうすると嘘くさいですよね。どんどん偽物っぽくなって。でもさいとう先生がいてくれると、僕が何も言わないでも「宝塚ですね」って(世間は)言ってくれるし。 ――最後までのプランは初めからできてたんですか? 幾原:できてないですね。キーワードみたいなのは最初からあったけど。“世界の果て”とか。 ――世界の頂上まで登って世界を見下ろすことになるから、企画段階で、主人公に天上って名づけたって聞きましたけど。 幾原:いやなことを知ってるねえ(笑)。 ――結局、「ウテナ」は、アンシーが主人公だったんでしょうか? 竹宮:「ウテナとアンシーの話なのね」って最終回の5回前ぐらいに言ってたんですよ。でも終わってみると、「なんだ不特定多数の話だったんだ」って思った。 ――アンシーっていやな子ですよね。 竹宮:そうですかね。私は全然。 ――個人的に、女の子に嫌われるだけだよなあと思ったんですが。あれが綾波(「エヴァンゲリオン」)だったらもっと人気があったような。 竹宮:綾波の方がやな子じゃないかなあ(笑)。女の子集団にとっては。 ――でも、人気キャラにしようと思ってアンシーを出したんですよね。 幾原:できなかったんです。途中でそういうことを放棄しちゃったんだよね。なんでそうしちゃったのかなあ。媚びるのがいやになったんだな、視聴者に。そういうの一切やめちゃった。 竹宮:じゃあ、作っているなかで一番大事にしていたのは何ですか。 幾原何でしょうねえ。忘れちゃったなあ。 竹宮:だから私は“出ちゃってる”んじゃないかと思うんですよ。幾原さんの心理的な部分がね。あんまり“作ってる”気がしない。 幾原:そうですね。 ――特に「エヴァ」の後だったせいもあって、作られてるんじゃないかと、みんな「ダマされたくない」みたいな。 幾原:ひとつひとつの描写には当然、隠喩みたいなことはあるんですよ。とりあえずそうじゃないと周りのスタッフが納得しないんで(笑)。でもそれ(視聴者に自分の意図を理解させること)が自分の中で大事なことかっていったらそうでもないんですよね。 竹宮:「このシーンはなんの意味だったの」っていうのはばかばかしいっていうか。最初は薔薇の花嫁だからこそ剣が出て来るんだと思ってたら、(第2部は各キャラが剣を出すから)「なんだ全員オッケーなんだ」って、そのあたりで理解しようというのを捨てました(笑)。ただ感じるだけ。 幾原:賢明ですねえ(笑)。 竹宮:決闘っていう形で決着をつけて、段階を上がっていくっていう形をとっただけ。 幾原:そういうことですね。でも、さっき先生が「ただ感じるだけ」と言って下さったのは、最高の誉め言葉だから嬉しいです。 ――竹宮先生はストーリーとキャラクター、どっちが優先されます? 竹宮:ストーリーのためにキャラクターが変わって行くのがすごくイヤなんですよね。私の「天馬の血族」は特に実際に年をとって成長していく話なので、環境によって変わってしまうじゃないですか。それが最初の印象とあまりずれないようにするのが大変。どちらかというとキャラ優先であるべきだとは思う。 ――ウテナの方は成長したんでしょうか。 幾原:どうでしょう。そういう意味では僕は出たとこ勝負ですから。 竹宮:ウテナは変わらないっていう話でしたよね。 幾原:まだ、自分が何をやったのかよくわかんないんですね。 ――さっき、不特定の話だって思われたっておっしゃってましたが? 竹宮:だから、“ウテナみたいな女の子”、“アンシーみたいな女の子”っていう不特定のものっていう感じだったんです。それがゲームっぽいなと思った。企画のきっかけはゲームからだって聞いたんで。自立というか、自分を発見する話。女の子が「自分は何なの?」って規定する話っていう感じで。 幾原:自分の心境がそうだったんじゃないですかね。自分の短い生涯を振り返ってみると(笑)、山から追われたっていう印象が非常に強いもので。「山から追われました、これから一人で生きて行きます」っていうのを「ちくしょう、よくも俺を追い出しやがって」って卑屈にならずに明るく描きたいなと思ったんです。最後は特にそうでしたね。“山”はもちろん、ウテナで言うと“学校”なんですけどね。 学校っていうのはもっと言っちゃうと自分がもともと所属していた社会であるとか、そういうことなんですけど。学校自体がひとつの社会ですから。まあ、これからも追われることはあるかもしれません(笑)。 竹宮:だからラストでウテナが忘れられた存在になっちゃいますよね。ああいうのも現実世界にありがちだと思うし、人は昔の事実を都合のいいようになかったことにしちゃうみたいなところあるじゃないですか。そういう比喩をすごく感じて、面白かったです。 ――ウテナは最初からあの話数だったんですか。 幾原:最初からその予定でしたけど、途中で息切れしてかなり息切れしてかなり苦しくなりました。それは制作のキャパで、体力なかったんで。 ――第2部の根室記念館のくだりが面白かったんですが。 幾原:僕はあのへんがダメだったんです。ただ今にして思えば、あれがあってようやくついて行こうと思った人もいるんじゃないかと(笑)。あのあたりはかなり不安でしたね。居場所が決められちゃうんじゃないか、「ああ、これはこういう作品か」ってされちゃうかなって。すぐコミケの人たちは居場所を決めちゃうから(笑)。 ――そのあたりは裏切ろうと。 幾原:裏切るっていうか、そういう(パロディとして消費される作品の)つもりで作ってたんじゃないかった。むしろ居場所のない作品にしたかったんで。 ただどうしてもそうならざるを得ない時期があったんですよね、じゃないとスタッフが理解できなくなっていたし。だから第3部は第2部を巻き返すのに必死でした。でもいきなり第1部と第3部を合体させたら誰も見なかっただろうな(笑)。 ――特に第3部なんか人に説明のしようがない。人から話を聞いてても「車がとにかく走っててさあ、なんか暁生が胸をはだけてさあ…」(笑)。 竹宮:なんか人に言いたくなっちゃうんですよね。 ――その熱気がとにかくすごいんで「しまった見にゃあいかん」みたいな。 幾原:それをもともと狙ってましたから。第2部で何が不安だったかと言うと、口で説明できそうな話になって来てたから。そういうふうに言葉にしようとしても、説明できないと言われるのが一番ありがたい(笑)。 竹宮:まず初めに「変なんだよ」って(笑)。 竹宮:女の子にとって、王子様っていろんな意味で象徴的なものですね。王子様のようなりりしい女の子っていうの。特に(暁生とウテナが)一夜を過ごすところ。 幾原:あそこはやってて恐かったですよね。嫌がらせかなっていう感じになっちゃうんで、ブレーキ踏みつつやってたっていう感じですね。僕は女性じゃないから、そこにほんとに突っ込んで行くと「余計なお世話だよ」っていう話になるんじゃないかと。 竹宮:私は全然そういうところはなかったですね。 ――「女の子っていうのは薔薇の花嫁みたいなものですから」っていうアンシーのセリフ、かなり思い切ってるなと。 幾原:だからそれにしても、僕は女性じゃないですからね。そういう言葉を僕やうちのスタッフが作っちゃったりしても、なんか説教になっちゃうっていう。もちろん視聴者が説教だと取らなければいいかもしれないんだけど。でもやっぱり作り手である僕が男性だから、そんなこと言っても何かねえって(笑)。 竹宮:遠慮ですか、それは? 幾原:なんか嘘っぽいっていうか。女性のほっぺたをはり倒して「目をさませ!王子様はいないんだ」って言ってもねえ。別に女の子に説教したいわけじゃなかったですし。 竹宮:でも女の子はそういうところたくましいんじゃないですか。何言われても平気っていうところもあると思うし。 幾原:向かって来てくれる分にはいいんですけど、押し付けがましくなっちゃうとマズイなと思ってブレーキ踏んでたんですけどもね、どうしても話進めるために止められなくなってる部分なんですよね。 ――竹宮さんの場合、そういう不安ってないですよね。 竹宮:別に女の子の話、男の子の話って思わずに描いてるからだと思うけど。ジルベールにしろセルジュにしろ、男の子であっても読者が同化できるんならそれでいいし。だからそういう意味で遠慮したことはない。「これって女性蔑視のセリフじゃないっ」とか良く言われるんですけれども、「だからなんなの」みたいな(笑)。 幾原:確かにやってる途中でそのキャラクターが女性だからとか男性だからとかあんまり考えないですね。ただ、さっきみたいなセリフが出てくると、どうしても、自分は男性なんだと意識しちゃってブレーキがかかるんですよね。 ――男の立場から、王子様を求められても困るというのはないですか。 幾原:いやそれは、僕もお姫様とかお母さんを女性に求めてしまいますから、求められた時はお互いに求め合いましょう、と折り合いをつけますけれども(笑)。まあ、世の中にはそれでは納得してくれない子もいるだろうから。その子達のためにこのアニメを(笑)。 竹宮:“世界の果て”っていうのが、王子様のなれの果てなのかなあと。あんまり王子様にこだわってると逆に普通の人になっちゃうよ、みたいな。いつまでも子供でいる大人っていう感じで。そういう皮肉なのかなあとか(笑)。 幾原:皮肉じゃないです。女の子が王子様を求めているとかいないとか、男性が考えるそういう女の子全般に対する解釈自体がステレオタイプの考えだったりするから。それよりは「王子様になれなくてすまん!」っていう自分の気持ちの方が強くフィルムに出たんじゃないですかね。やっぱり僕は男性だから。自分はどうやら王子様になれそうもないなあって(笑)。 ならなきゃいかんっていうのも、志としてそれが大事だっていうのも良くわかる。けどちょっと難しそうだっていう。まだ諦めたわけじゃないんだけど、どうやら王子様にはなれなさそうだっていう状態の人が作った作品(笑)。 竹宮:女の子にとって王子様って何でしょうね? 幾原:自分の主体をゆだねられる人。もっと言ってしまうと、単純にはお父さんですよね。 竹宮:王子様とかお父さんて支えてる人がいるわけですよね。従女とか妻とかが。そういうのがアンシーになるのかな。 幾原:あんまり僕が言っちゃうといやらしくなるんですけど、女性が見た都市とか社会の中には、やっぱり父性とか王子様っていうイリュージョンがあるんではないかと思ったんですよ。存在してほしいというイリュージョンかもしれないですけど。 竹宮:年とっても少女でい続ける人には、それはあるんじゃないでしょうか。憧れというより、少女であり続けるために必要なもの?そういう意味では大人になっちゃったのかな、幾原さんは(笑)。なれないって規定をしているわけだから。 ――企画段階ではウテナが世界を見下ろす、というのも、そのイリュージョンとの隔たりを示す、という? 幾原:そうですね。女性を通して社会システムを考えようってことでしたから。 竹宮:見下ろすっていう言葉だけ聞くと、勝ち誇った感じありますけどね、結末はそうじゃなかったですね。 ――最初に考えていたのとは、違うとこ行ったわけですね。 幾原:いやそうでもない。やっぱり必然なんですよ。結局僕がアニメで描かれているウテナのポジションと同化しちゃったから、ああなったんだと。嘘をつきたくなかったんじゃないかな。見下ろせるようなところまで自分が行けてないからね(笑)。 ――幾原さんは完全無欠の王子様になりたかったんですか? 幾原:それはそうですよ。 ――それはお姫様は大勢のハーレム状態? 幾原:男性は普通そうですよ(笑)。 ――そういう考え方も“世界の果て”なのでは(笑)。 竹宮:お聞きしたかったのは、女の子にとっての“一線を超える”というところですね。「ウテナ」は案外簡単に飛び越えるじゃないですか。 幾原:ああ、深いところは考えてないですね。というか、どうでもいいっていうことを単に提示したかっただけかもしれないですね。純潔とかどうかにこだわってる人が多かったんで、そういうことはどうでもいいんですって表明したかったんでしょうね。 竹宮:でも今時の子は全然こだわっていない方が多いんじゃないですか? 幾原:そうですね、だからそうしたっていうのはあります。でも、アニメーションだからこそ純潔は大事だという枠に入れたがる人は多いんじゃないのかな。 竹宮:逆に純潔かどうかを理解の指標にしている人は多いんじゃないのかな。それを超えると大人なんだとか。 幾原:そうですね。純潔であるかないかで、絶対悪であるとか正義であるとか線を引きたがっている人が多かったんで、そうはしたくなかったっていうのがありますね。マンガにしてもアニメにしても現実に対するモチベーションになるわけじゃないですか。読者や視聴者にとっては。その中で社会で言うところの絶対悪って純潔じゃないってことですよ、て僕が線を引いちゃうのが嫌だったんですね。たかが、フィクションに過ぎないアニメーションで肉体的に純潔であるかないかで線引きをするっていうのは。 竹宮:私が「風木」を描いてた時期には、まず一線を越えるか越えないかが問題(笑)。でも私の頭の中では純潔に全然興味がなかったので、最初から超えちゃってて、そこから始まったっていう。それがわかんないようじゃ何も語れないっていう感じで。 幾原:あと、作者が男性の場合、ものすごい特殊能力があったりする女性キャラだと、女神とか、巫女さんにしたくなるんですよね。社会の中で、巫女さんのポジションだと、男性はホッとするんですよ。だから僕自身、それにあらがいたかったのかも。 竹宮:私も巫女だと言われたことがあるぞ(笑)。全然そうじゃないのに(笑)。その頃、私って現実感覚がなくて、それこそ切符も買えない奴ですよ。社会のことを見てない。だから誰でも巫女さんになれますよ、閉じこめておけば(笑)。 幾原:僕が先生のマンガで好きなのは、街の話を描いているところ。都市論みたいなのがでてくるのがすごく好きなんです。「天馬」は、都から追われた男の人と女の人の話でしょう。そういうところとか、あとイスマイルが都の快楽に体を毒されるじゃないですか。「俺のことかな?」って(笑)。僕ももっとチヤホヤして欲しいとか、雑誌に出たいとか(一同爆笑)。 草原の民だというのを彼自身忘れかけてる。「風と木の詩」も最後、街で話の決着がつくじゃないですか。セルジュの両親なんかも街を追われた人だし。 “街”と、“もう一人の自分”の話はすごく惹かれますね。もう一人の自分、半身の話を描く少女マンガ家は多いんですけど、都市を描く人がいないんですよね。都市論がなく、親兄弟や隣人などだけで語られる半身の物語って、やっぱり脆弱だと思うんですよ。だから、同時に都市論を描く先生のマンガは、必ずその時代をあぶり出してるように見えるんですね。そこが、その他の半身の物語と一線を画しているところだと思います。 竹宮:私にとっては、生活感がないものはつまらないというのが基礎的な部分なんです。人間も、まあ、ひとつの細胞だと思ってて、それが死というものを司っているのかって捉え方なので、“都市全体が身体なんだ”っていうのがないと世界が描けない気がする。住んでる街によって、近代的になっていく人もいるし、田舎臭くなっていく人もいるし、環境がすごく作用するもんだから、描かなきゃしょうがないんですけど、私にしてみれば。 幾原:あんまり「解釈しました」ふうに言いたくないんですけど、半身であるジルベールを失ったセルジュは大人になってしまい、自分の心に住む彼にもう一度出会うためにピアノを奏かざるをえなくなる。それって、作家の根拠である、永遠に満たされることのない飢えが設定されたって話ですよね。つまり、「風木」は“こういうふうにして竹宮恵子は都会の中で作家になり、現在に至りました”っていう話としてはよくわかるんです。 もちろん違うって言う人もいるだろうけど、僕は“竹宮さんの話”だなあっていう感じがしたんです。で、「地球へ…」なんかを見ると決着の付け方が、すごくシステムを燃やしたい気持ち、街を燃やしたい気持ちが当時の心境として良くわかるなあって気がするんですよ。 竹宮:最終的に“破壊=建設”みたいなのありますよね。破壊しないと建設できない、建設しないと破壊できないじゃないかみたいな(笑)。 幾原:やっぱり燃えちゃうんですか、街が。 竹宮:今の私には破壊するほど社会への愛はないなあ。 幾原:よく言われるじゃないですか、80年代的な僕たちの都市論っていうのが全部燃やしちゃうもので、90年代的な僕たちの都市論だと燃やすっていう決着の付け方はないだろうっていう。特にオウムなんかが出ちゃったあとで、そういうのはないだろうって。だから、そんな困難な時代に先生はどうやって決着をつけるんだろうなあって、そこがすごい気になったんですよ。 「ウテナ」も、学校燃やしちゃえば簡単だったんだろうけど、そりゃないだろうと思ったんで。 竹宮:結論としては、似てる……かもしれないっていう気がしますね。 幾原:僕、都市の快楽を享受しているっていう自覚がないんで、東京からのけ者にされてるような意識があってですね。だからいよいよとなったら燃やすしかないと思うかもしれない(笑)。 竹宮:壊さずに終わらせる方法を考えましょうよ(笑)。 幾原:都市の快楽に混ぜてくれないくらいだったら燃やしてやる、と言って、イスマイル(※「天馬の血族」の登場人物。チンギス・ハーン(オルス)の異母弟。兄にコンプレックスを抱いていて、そこにつけこんだ帝の妖力に操られるまま、帝とオルスの争いに利用されてしまう)がああいうふうになっていくじゃないですか。ダブりますよね、自分と(笑)。 なんか僕は自意識(過剰)の子ですから……。チンギス・ハーンって全然自意識がないですね。 竹宮:だから、私言われてますよ、自意識の子に「先生はそういう者の味方だったんじゃないですか」って「今のは違う、味方して描いてくれてない」って。 幾原:ああ、なるほどねえ。さっき破壊って言いましたけど、自意識があったりすると、本当の意味での破壊って難しいんじゃないかな。自己変革って意味での破壊は。 ハーンに自意識がないっていうのは・・もしかして、昔から先生にとってのいい男には自意識がなかったんですかね、「地球へ…」のジョミーとか。 竹宮:うーん、最初の、学校にいた頃のジョミーにはありますね。ミュウとして目覚めてからはないように見えますかねえ。 幾原:やっぱりチンギス・ハーンは先生にとっての理想の男性なんですか? 竹宮:実は私自身はオルスに同化しているんです。アルトジンではないんです。理想というより、自分の性質がこういう立場に立ったら、と思いながら描いてるオルスは自意識がないんではなくて、ああいう自意識なんです。 たぶん、ごく小さい頃にすっごく自意識のかたまりだった頃があって、それを捨てないと生きていけないほどだったので、全部を含む自分を設定した人なんです。私、自意識はツライので意識したくない。持っていられるほうがエライと思うぞ…違うかなあ。 幾原:男性は自意識があるとダメですよね。最近の男の子ってみんな自意識の塊みたいなもんだから。 竹宮:みんなイスマイルには同情的なんですよ、女の子たちは。自意識あるから「かわいいじゃないか」って思うみたい。 幾原:それはねえ、イスマイルを好きなんじゃなくて自分のことが好きなんですよ(笑)。まあ、僕も自分が好きだから、イスマイルが大好きなんだろうけど(笑)。 (二月十七日、新宿にて) |
「天井桟敷 そして、『少女革命ウテナ』」 幾原邦彦×高取英 対談
|
- 2008/02/25(Mon) -
|
幾原邦彦(監督) VS 高取英(劇作家)
ふゅーじょんぷろだくと「演劇誌 キマイラ」 創刊2号より 高取:『少女革命ウテナ』でシーザーの音楽を使いたいと思ったきっかけは何ですか? 幾原:ずっとこういう仕事をしていて、いつかシーザーの音楽を(自分の作品に)かけたいなと思っていたんですけど、これまでは自分で演奏家なり作曲家を指名できるキャリアがなかったので。ここ最近やっとそういうキャリアができたので頼んだんです。 それでも最初はスポンサーやメーカーに、シーザーの起用を反対されました。それで僕自身も一時は(シーザーの起用を)あきらめたんですが、万有引力の舞台「カスパー・ハウザー」での「絶対運命黙示録」を聞いて、これだと思い、強引に押し通したんです。 高取:桟敷(天井桟敷。以下同)は観てたんですよね。 幾原:僕が観ていたのは末期ですよ。ほとんど再演です。僕が観たのは。「レミング」「奴婢訓」。関西で観たんです。 高取:「奴婢訓」はどうでした? 幾原:いや、まあ、衝撃的でしたよ(笑)。観た年齢がよかったですね。十代でしたから。寺山さんのは年くって観たらだめなんですよね。十代の時に観ないと。二十歳超えちゃうと生き方が決まってくるじゃないですか、そろそろ。 そうすると、ああいうのって、お勉強になっちゃうでしょう。十代だと自分がどういうふうに生きていこうかっていうキャリア考えてないんで、何でもモチベーションになるじゃないですか。そういうときって、寺山さんのものってスッと入ってきちゃうんですよ。 だから、もし二十歳過ぎてから観たら、あ、こういうものもあるんだ、で終わったかもしれませんね。 高取:最初が「奴婢訓」だっていうのは非常に幸せなことでね、あれは代表作なんですよ、後期の。僕は桟敷、若い頃から観てるけど、非常に難解でしてね、「奴婢訓」はジャン・ジュネの「女中たち」をモチーフにしていて、難解な中にも、まだわかりやすい部分が残ってる。 幾原:「奴婢訓」にしても「レミング」にしても、わかりやすいなって印象を受けましたね。実は、見るまで(桟敷は)いわゆる前衛劇っていう印象があったんです。そういうのって退屈なイメージがあったんですけど、寺山さんの場合って、わりとサービス精神が旺盛じゃないですか。女の人が裸ダーンと出てきたり、音楽がこう、すごい大音響であったり、お暗転の時は非常灯全部消しちゃうとか。そういう部分で面白かったですね。 高取:僕は十代の終わりぐらいに大阪で観たことがあるんですよ。「青少年のための無人島入門」という作品でね、かわいい美少女がいたり、巨大な電球が出てきたり、鶏の首斬ったりしてね。客席に首のない鶏が逃げて、キャーッと客が……。 幾原:僕が知ってる寺山さんと高取さんが知ってる寺山さんと、やっぱり違うと思うんですよね。最初に高取さんが知った寺山さんというのは、世間的に少しキッチュな扱いだったでしょ。僕の頃っていうのは、かなり文学っぽかったんですよ、(寺山修司に対する)世間の扱いが。 僕が「奴婢訓」とか「レミング」っていうのを初めて観た印象も、まさにそう。キッチュじゃなくて文学。それは僕が十代だったからそう思ったのかもしれないけど。 高取:文学ですか。文学って言うとね、悲しみますよ(笑)。というのは、寺山さんは唐十郎と対談していて、「唐、お前は文学だ、俺は悪いけれど、演劇をやるんだ」といった。もともとは、文学的なことをやっていたんですけどね。 幾原:昔は寺山さんの本は手に入れるのが大変だったけれど、いま文庫本なんかで読んで寺山さんを好きになった女の子にとっては、完全に文学ですよ。 高取:そうですね。寺山さんは文学少年だったから、短歌でデビューだから。 幾原:寺山さんのものって、もちろん、観たときに非常に猥雑な感じがしたし、コマーシャリズムも多かった。ただそのニュアンスよりは文学っぽいニュアンスのほうが強かったですね。 高取:それは、寺山さんの最も本質的なところを見ていたんでしょうね。風俗だのキッチュだの言われて叩かれたりしたけれど、あれは日本の古い形の文壇や、古い形の演劇界が認めなかったにすぎないんです。だから、最先端をいっていたんですよ、文学的には。 高橋和巳なんかとつきあっていた『文藝』の元編集者が「寺山修司を若い頃は、サブカルチャーだと思っていてバカにしていたんだよ。それはちょっと後悔している」と言っていましたね。そういう人も認めざるをえないというところまで行ったんです。で、幾原監督は桟敷を観たときに、同時にシーザーの音楽を聞いているわけだけど。 幾原:ええ、音楽は非常に印象に残りましたね。それで、寺山さんは死んじゃったじゃないですか。そうすると、シーザーを追いかけるしかないわけですよ。万有引力を。85年頃に東京に上京して、2年くらいは万有引力を観ていましたね。正直いって、最初はかなりがっかりしました(笑)。 高取:それは、つまりシーザー色も強いせいもある。桟敷色も引きずっているけれど、寺山さんはいないわけです。詩情と叙情が少ない。寺山さんとは、ちょっと文学性が違うんです。 幾原:いちばん違うと思ったところは、寺山さんの場合、非常にわかりやすいんですよ。テーマにしても何にしても。シーザーの場合は抽象的なんですよ。そういう意味では、僕はシーザーのほうが文学的だと思います。 寺山さんというのは、『書を捨てよ町へ出よう』とか、要するに、キャッチコピーみたいなことを最初にやりはじめた人、コマーシャルっていうことをとても意識していた人で、それが(桟敷の)芝居を、非常にわかりやすくしていた。 高取:観客がどの程度わかるか、計算している。 幾原:そうです。ところが、シーザーの場合は、逆に文学性だけが突出していて、わからん奴はわからんでいいっていう……。 高取:芸術性ということだね。アーティストだからね。つまり、シーザーは、実は小説を読まない人なんですよ。本棚を見ると、哲学書と宗教書と思想書ばっかりで。それをコラージュしたり、ヒントを得ているんですね。したがって、ますます難解になる。 幾原:初めは、面白くないと思ったんですよ、面白くないけれど、仕方がないから追いかけていたんです(笑)。いろんな芝居を観たんですけど、最初の体験が桟敷だったので、あれを超えるものはないんですよ、僕の中で。いまにして思うと、最初の体験がたとえば野田秀樹さんだったら、それはそれでキテたかもしれませんが。 あと、僕の年齢も二十歳を超えちゃうと人生が百八十度変わるようなカルチャーショックもないんですよ。だから桟敷を追体験したいと思いだけで追いかけていたんですね。 高取:演劇は最初に観たものにシビレるという、まあ俗説では、女性は最初の男性を忘れられないというように、最初のというのは強烈みたいですね。 幾原:ハハハ……。いまだに、あれ以上のものはないですね、芝居では。役者もやっぱり、すばらしかった。とにかくみんな上手かったですしね。 高取:月蝕歌劇団は観たことがありますか? 幾原:観たことがあるんです、実は。上京した直後に何本か。すみません、あまりピンとこなかったんですが(笑)。 高取:桟敷にしびれてる人に、比較されるとね(笑)。 幾原:正直いうと、すべてにおいて桟敷が僕の基本だったんです。何観てもだめでしたね、そのときは。だから、シーザーの音楽を使っているとか、ちょっと前衛的なニュアンスを表現していると、桟敷とダブっちゃうので、そうすると、どうしても僕の中で桟敷が勝っちゃうんですよね。こんなこというと怒られちゃうかもしれないけど。桟敷の芝居はエネルギーを感じました。「本気」が入っているって感じがしました。 高取:それでは、「ウテナ」の話にいきますけれど。 幾原:厳しい意見を言ったあとで、いきなりですか(笑)。 高取:幾原さん、キャラクターの土谷瑠果に似てるって言われません? 幾原:よく言われます。あれ自分に似せろって言ったのかもしれませんね(笑)。 高取:「ウテナ」を観ているとですね、瑠果なんて特にそうですけど、負けていく人に対する思い入れがあるんじゃないかっていう気がしたんですが。敗北者に。それは何でですか? 幾原:それは、たわいないことなんです。これまで生きていて、いろんな才能のある人たちを見てきました。僕なんかよりずっと才能のある人たちを。アニメにかぎらず、です。これからこいつはものになるかもしれない、そういう人たちが、何らかの事情で、やめざるをえない状況に陥るのを、数多く目の当たりにしたんです。 そういうのを見るにつけ、次は自分の番だなっていう恐怖感が、絶えず頭から離れませんでした。で、自虐的にそういうシチュエーションのドラマが好きになっちゃったっていうんじゃないでしょうか(笑)。 高取:そういう消えていった人たちに思い入れはあったんですか?才能あったのに残念だとか? 幾原:というより、むしろ逆だと思うんですよ。本当のことをいうと、ある種のいやがらせなのかなって気がしますね。引いちゃった人たちに対して。引いていく人たちって、どっかナルシズムで自分のアイデンティティを保っているように見えたんです。だから、引いていく人間のナルシズムを笑ってやろうという、僕の悪意なんです。 残ったやつが正義だというのが僕の中では強い。「引くイコール死」という意識が僕の中では、常にあったと思う。才能があるとかないではなくて、引くか引かないか、やるかやらないかでしかない、という。 高取:それはおっしゃるとおりです。つまり、持続したやつが勝つんです。どんなに才能があっても、あきらめてどこかに行ってしまえば、それはただの人です。 幾原:たぶん、自分に言い聞かせている部分が大きいんでしょう。やせ我慢的に(笑)。 高取:なるほど、蔑みといましめが入っている。 幾原:ちょっとアンビヴァレンツが入っているんです。次は自分の番かもしれないっていう恐怖感、それと、そうなったやつらを笑ってやれっていう。 高取:現在勝者であって、消えていった人を勝者の目で見ることもできるし、自分もいつか、ひょっとしたらという恐怖感もあるということですね。ついでにもうひとつ聞いておきたいんですが、「世界の果て」はどこからきたんですか。 幾原:寺山修司の「レミング」に出てくるのをとったんです。「世界の果て」という言葉には、ユートピアという解釈もあるけれど、“あきらめ”みたいな意味合いも含めています。 高取:寺山修司の最後の詩に、「世界の涯てが自分自身の夢のなかにしかないことを知っていた」とあって、寺山さんは死を覚悟して書いているので、あきらめの意味で使っているともいえますね。 ほかに幾原さんが影響を受けたものはありますか?たとえばマンガは何が好きだったんです? 幾原:僕が子供の頃、最初に意識して読んだ作品っていうのは、たぶん『がきデカ』です。山上たつひこさんの。 高取:それ僕、大学生の頃だ。 幾原:僕は小学生でしたね。あと『ど根性ガエル』とか『トイレット博士』とか。 高取:ギャグ系が好きなんですね。 幾原:好きでしたね、ギャグが。 高取:ストーリー系は読まなかったんですか? 幾原:ストーリーマンガは一回読んじゃうと、おしまいだと思っていたんですよ。ギャグマンガは何回読んでも、そこにおかしい絵があるじゃないですか。ストーリーマンガよりはお得な感じが(笑)。そういう意味でギャグマンガのほうが好きでした。 高取:映画は? 幾原:「ゴジラ」から東映マンガ祭り、普通ですね。 高取:子供はみんな「ゴジラ」が好きですね。僕もゴジラマニアです。 幾原:映画館で「ゴジラ」を観るというのがうれしかったですね。あとは、「仮面ライダー」「ウルトラマン」。僕の世代の人はみんなあのへんが好きですね。 高取:少女マンガは? 幾原:少女マンガで初めて読んだのは、萩尾望都さんの『トーマの心臓』ですね。あれ読んで気分悪くなって吐いたことがありますよ。たしか小学校五年生のときでしたね。女の子とマンガの貸し借りをしていて、僕が『がきデカ』か『トイレット博士』を貸したんですよ(笑)。 女の子の方が『トーマの心臓』を貸してくれたんです。タイトルを聞いただけで、ホラー物だと思ったんですよ。漢字で「心臓」って書いてあるでしょう。それで、かなり動揺したんですけど、内容が難しくて。コマ割りがはっきりしてなくて、なんだこれはと……。 高取:ああ、ギャグ系が好きだったからだ。僕も女の子と『少年サンデー』と『マーガレット』を交換していた。その頃は水野英子の『セシリア』が人気でした。 幾原:小学生の頃、唯一読んでいた少女マンガは弓月光さんでしたね。あれは読みやすかった。 高取:話を「ウテナ」に戻すと、戦う女の子というのはどのへんから? 幾原:普通の女の子が出てきて、お姫様になりたいという話でもいいんだけど、「セーラームーン」以降を考えると、視聴者にとって女の子が暴力を振るうというのが快楽になっているから、つまり女の子がいかなる方法を使って鉄拳を振るうかというのをコマーシャリズムの中で見せるというのが命題だと思っていたので、王子様にして剣を振りまわすといったことを考えたんです。 高取:寺山さんが羽仁進とやった「初恋・地獄篇」という映画に「女斗美」というのが出てくるでしょう。女が戦うのを「女斗美」というんですよ。女子プロレスがいまほどメジャーでない時代に戦うんです。早くに取り入れているんですね。 それは、要するに男がスケベ心で見るんですけど、風俗のアンダーグラウンドのジャンルとしてあったんです。もちろん、「セーラームーン」や「ウテナ」の世界とは違うんだけれど、どこかでそういうものを見て喜ぶ人がいるということでつながっているんですよ。 幾原:僕は「セーラームーン」以降は、女の子が正義の鉄拳を振るうっていうヴィジュアルそのものが、快楽として女の子たちに認識されたと思っています。つまり、女の子が刀を振りまわすとかいうのは昔からあったんですけど、飛び蹴りを食らわすときにパンツがちょっと見えたりして、それはあくまでボンドガールを主役にしたらいいだろうっていう、男の人の発想だったんです。 でも、「セーラームーン」以降は、女の人も気に食わないことがあったら、飛び蹴りを食らわしていいんだとか、そういうことが女の子の視聴者にも快楽として認識された。だから企画する立場としては「セーラームーン」以前の発想には立ち戻れないんです。いまでも昔の少女物のリメイクがありますけど、時代が違うっていうか、女の子が暴力を振るうといった鋭いものがないと、女の子は気持ちがいいと思わないんですよ。 高取:なるほどね、つまり「009」も「ゴレンジャー」も、女性は男装して戦うんですよ。そういうふうに、男装して戦うんじゃなく、セーラー服を着て女の子として戦うところが新しい。全共闘時代に、女高生はセーラー服でつっこませろといって僕は活動家にバカにされたんですが。戦うのは男で、女が家を守っているという戦前の考えがくずれた。僕の「聖ミカエラ学園漂流記」もそこからきている。 幾原:「セーラームーン」の場合、自分がやってて言うのも何ですけど、子供たちや女の子たちにウケていたのは恋愛描写のニュアンスではなく、あくまで主人公が必殺技を使って、バッタバッタと敵を倒すという部分だったんですよね。 高取:ただ、男が戦って、女が貞淑であるという考え方は明治以降なんですね。江戸時代は違うんです。それがいま戻りつつある。 話を「ウテナ」にもっていくと(笑)、アンシーが快楽主義的で、快楽主義的な女の子がどんどん増えているんですよ。だから、援助交際の女の子とか、すごくみんな、えーとか言うけれど、実は江戸時代は長屋のおかみさんは長屋の人、全部やってたっていう非常にフリーな時代だったんです。そういう意味では、戦う女の子であるウテナと快楽主義的なアンシー、ふたりがセットになっているっていうことは、非常に画期的なことなんですよ。 ところで、アンシー像はどういう感じですか? 幾原:これはあんまりいうと、みっともないですが、単純に母親です。 高取:本当!? 幾原:いや、うちの母親っていうんじゃなくて、イメージの中での母親、母性ですね。 現実に対して基本的に従順ではあるんですけど、実はその現実に対してかなり恨みがましいのではないかというのが僕の母親のイメージ。望んで苦労していると自覚しているはずなんだけど、それをさせているのは実は男性じゃないかっていう憤りを抱えている。 その男性の望みをかなえさせてやろうっていう健気なところが多分にあるんだけど、だが実は彼女の内面では……という。その健気さやかわいそうさを救ってやれるほどの男性、父性、王子様はこの世界にはいないっていうのを描くためのキャラ。 高取:戦後、日本のフロイトともいわれた高橋鐵という人がいたんですけど、その人は、昼は貞女、夜は娼婦という二面性をもっている人が、理想的なる良妻賢母像だと言っていますね。 さて、そろそろ映画「ウテナ」についてですが、公開日は? 幾原:七月の最終土曜日くらいになりそうです。タイトルは「ウテナ」ですが、キャラクターデザインはすべて変えています。過去設定も全部。ウテナと冬芽は恋人同士で、いまは別れてしまったという設定だったり。 高取:最大の敵は誰なんですか? 幾原:これはね、秘密なんです(笑)。ラスト15分で、かなりすごいことになります。自分で言うのも何だけど、かつてない表現です。あと、今回ちょっとだけ本気で、泣けるものを狙ってます。いつもどおり、抽象的な部分もあるんですけど、やっぱりわざわざお金を払って観にきてもらうので、多少は泣けたとか言われないと申し訳ないんで、サービスしてますね。 高取:すごいですね、大阪人ですね(笑)。 では、あとひとつ、ディオスについてお伺いしたいのですが。 幾原:ディオスは暁生の純潔の結晶なんです。 高取:ディオスは少年ですね。 幾原:そうです。暁生はディオスが大人になった姿なわけですが、暁生は大人になるときディオスを殺したんです。いや、殺したというより、眠らせたと解釈してます。彼の心の中で。 暁生は、大人になるってことは、何事もあきらめて生きることだと思っている。でも、姿は大人になった今でも、自分の本質は純潔であるはずだという夢を見ている。そういう夢(ディオスが自分の中で眠っているという夢)がないと、彼は生きていけないんです。 よくいるでしょ、「実はギタリストになりたかったんだけど、親が体が弱かったんで家業を継いだ」なんて言うやつが(笑)。そういうやつなんです、暁生って。結局、瑠果の扱いと同じですね(笑)。 高取:いや、今日は十分すぎるくらいのお話を聞きました。ありがとうございました。 (99年4月14日) |
「絵描きのシッポ」 アニメーター座談会
|
- 2007/11/25(Sun) -
|
長谷川眞也・長濱博史・林明美・小黒祐一郎
上記メンバーによる座談会 ラポート「少女革命ウテナパロディ競作集 薔薇の革命」より
小黒:今回は「絵そのもの」について話をしましょう。まずは、テレビシリーズの話から。
長谷川:僕の中では、長濱や林さんが参加してくれた時点で、『ウテナ』本編の作画のクオリティに関する心配はなくなったんですよ。むしろ、クオリティが高いだけのものにしたくないというか、他の作品とは違った価値観のものにしたかったんです。 小黒:違った価値観でのクオリティを目指したということ? 長谷川:そうです。単に影が何重にもついている絵ということではなくて、『ウテナ』ならではのクオリティを目指したいと思ったんです。 僕は、シリーズの最初の頃は総作監として、各話の絵をチョコチョコと見ていたんですが、スケジュールの関係もあって、途中から作画監督は各話の担当に任せることになったんです。 それで、作監の作業をやる代わりに、何か方向性を打ち出したいと思いまして。 小黒:具体的には? 長谷川:放映が1クール過ぎた頃から、徐々に、版権(アニメ雑誌などの描き下ろし)の方でビジュアルテイストを呈示していきました。 小黒:なるほど。描き下ろしで他のスタッフに、方向性を示唆したんだ。長濱さんは、長谷川君に何か示唆された覚えはあります? 長濱:あります! 小黒:どんな風に? 長濱:示唆というかですね(笑)。原画を描いて長谷川に見せると、「もっと裸にしてくれ」って言われました(笑)。 一同:(爆笑)。 長濱:それだけでした。 長谷川:オレ、他のことについても、色々、言わなかったっけ? 長濱:他は、ほとんどなかった(笑)。 林:私も、それらしい事を長谷川さんに言われたような記憶が……(笑)。 小黒:他の人にも、そういうことを言ったの?相澤(昌弘)さんとか。 長谷川:ええ。相澤さんは、割と僕の意図を汲んで展開してくれました。 小黒:暁生が自分の乳首を撫でるのも相澤さんが作監の回(第35話)だったよね。 長谷川:あの話は嬉しかったですね。長濱が作画したシーンで、冬芽と西園寺がどんどん脱いでいったでしょ。 小黒:生徒会室にマイクが立ってるシーンね。 長濱:あれは、絵コンテの段階では服を着たままなんです。 小黒:作画のアドリブだったんだ。 長谷川:あれは良かった。ほぼ満点です。「これでオレの役目は終わった」って思いました。 一同:(笑)。 小黒:あれが『ウテナ』の完成形なわけ? 長谷川:あのシーンって、最初、相澤さんは服を着せようとしたんだっけ? 長濱:そう、そう。 長谷川:長濱が脱がした絵を描いたら、相澤さんがさすがにマズイと判断して書き直して、服を着せたんだけど、それをまた強引に長濱が脱がせてしまったんです(笑)。 小黒:それをやるように、長谷川君から指示が出てたの? 長濱:いいえ、長谷川の放ったエロ電波をビビビと受けて、それに同調して描いていました(笑)。シリーズ終盤になると、他のみんなも長谷川に言われる前に裸を描いていましたよね。 長谷川:無意識に裸を描いてくれるように、長濱の机の脇にダイヤルQ2のチラシを貼ったり。 長濱:そのためだったのか、あれは!! 小黒:スタジオの壁に色っぽいチラシが張ってあるから何かと思った。あれは作戦だったんだ。 長谷川:作戦っていうかですね。ただ、「わかって欲しい」と思いまして(笑)。 長濱:やな感じだな~(笑)。 小黒:林さんは、どうでしたか。長谷川君からの電波をもらいましたか? 林:ええ。時々、強烈なのを。 小黒:どんな感じのをもらうんですか? 林:何かこう「あっ、やらなきゃだめなんだな」と観念しちゃうような電波を……(笑)。 小黒:エッチな絵を描けという電波が(笑)。 長谷川:そんな、イヤならムリしてやらなくてもいいのに。 林:いえ、イヤなわけじゃないんです(笑)。 小黒:林さんが最初の頃にアニメ雑誌に描いていた描き下ろしは、女の子らしいおとなしい絵だったんだけど、中盤からどんどん色っぽくなっていった。特に、太モモがすごい迫力で。これが持ち味なのかと思ったんだけど。 林:(笑) 偶然ですよ。たまたま、そう描いただけです。 小黒:そうかなあ。 長谷川:確かに最初は、林さんは華奢な絵を描いていましたよ。だからといって、ボクが足を太くしろって言ったわけじゃないです(笑)。 林:自分では絵が変わったという実感は、全然、ないですね。 小黒:長谷川君の計画通りに、雑誌の描き下ろしも、テレビシリーズの絵も色気がある方向に動いていったよね。 長濱:僕らは「長谷川がこうするなら、こっちはこうしてやろう」って考えて。長谷川も「お前らがそうするなら、オレはこうしてやる」って感じで、互いにはりあっていました。 長谷川:色っぽい方向にいってほしいという要望は出しましたけれど、それぞれの自分の気持ちいい絵とか、センスってあるでしょう。自分は、こういうのをHだと思う、みたいな。それを出してほしいと思ったんですよ。 長濱:そういう意味では、長谷川は、みんなからうまく引き出していましたね。 小黒:長濱さんがHを感じるモノって何なの。 長濱:そうですね。透けて見える下着かなあ。 小黒:『ウテナ』で描いたっけ? 長濱:小学館のムックのピンナップで、下に履いてるパンツのラインが、ウテナの短パンに浮き出るように描いたんですよ。( 画像 ) 小黒:ああ、そうなんだ。だけど、それをアニメ本編でわかるようにやるのは難しいね。 長濱:エンディングのディオスの後姿がありますよね。最初は、あのカットで白いズボンの下に、黒いパンツが透けているようにしようかと思ったんですけど、まずいだろうと思ってやめたんです。ディオスの黒いパンツはセクシーだろうと思ったんですけど……。 小黒:こうして聞いていると、長濱さんの方向性って、長谷川君や林さんとちょっと違うね。HはHなんだけど、男の色気なんだね。入れ墨をしているやくざの色気なんだ。 長濱:そうですね。実際、入れ墨とかには色気を感じますよ。 小黒:35話を過ぎると、西園寺って最後すごいいい顔するよね。シリーズ終盤の西園寺は、ほとんど長濱さんが描いているんだよね。 長濱:そうです。西園寺は、ちょっと女っぽくなりましたよね。冬芽と絡むようになって。 小黒:なるほど、西園寺は、冬芽とツーショットになって完成形なのだな。 長谷川:冬芽と一緒にいると西園寺は女になるの? 長濱:脇に冬芽がいると、西園寺は女形になりますね。 小黒:長濱さんが描くと、ウテナもヤクザのお兄ちゃんみたいだよね(笑)。 長濱:あ痛ァ(笑)。ホント、そうなんです。みんなに言われるんです。オレの描くウテナは、アキオチックだとかって。 小黒:長濱さんは、男の裸が好きなの? 長濱:好きですよ。 小黒:おお、意外な展開(笑)! 長濱:男が好きなわけじゃなくて、色気のある男を描くのが好きなんですよ。やり甲斐を感じるんです。 長谷川:長濱は、『ウテナ』の作画がはじまった頃は辛そうな顔をして、「男を描きてぇ!」なんて言ってましたから。元々、アメコミが好きだから、筋骨隆々としたキャラがでないとダメらしいんです(笑)。 小黒:長谷川君も、男でもOKなの? 長谷川:オレは、男にはそんなに関心はないです。男の裸を描くのは長濱の真似をしてるだけですから。 小黒:色気のある男の絵は、長濱さんから吸収したんだ。 長濱:そうなの? 長谷川:そうですね。絵で男を脱がすのが気持ちいいってことも、長濱から教わったんですよ。 小黒:林さんはどうですか。『ウテナ』に参加していて、自分の絵のポイントは「ここだ」というのはあったんですか? 林:えっ、Hのポイントですか? 小黒:Hでなくてもいいです(笑)。 林:最初の頃は、夢中でやっていましたね。さいとうちほさんの絵の感じを出したいとばかり考えていました。 長谷川:林さんは『ウテナ』に参加することになる前から、かなり、さいとうさんの作品を読んでいたんです。ドンピシャリの人選でしたね。 林:最初は、普通の少女マンガだと思っていたんです。でも、はじめてみたら全然様子が違っていて(笑)。最初にやった6話のカンガルーが出る話は、ギャグだから、まだよかったんですけど……、7話とか14話になると様子がおかしくなってきて、「こんなシーンをやってもいいのかなぁ」と思いつつ仕事をしていたら、そのうちに面白くなって、ハマっちゃって……。 小黒:6話の最後で、カンガルーをやっつけた冬芽が、笑って振り向くカットがかっこいいよね。かっこいいだけに笑えてしまう。 長濱:林さんの絵で、あの話だからおかしいんですよね。めちゃくちゃ面白い。 林:ギャグは、もっとやってみたかったですね。結局、あの1本だけでしたけど。 長谷川:長濱の絵は比較的わかりやすいよね。男が色気を出しているって感じがする。だけど、林さんの場合は、どこに色気の根本があるのか探ったんだけど、なかなかわからない。 林:別に探らなくてもいいじゃないですか(笑)。 長谷川:いや、林さんに何か好きなものがあれば、こっちとしてはそこに集中して……火に油を注いでみたいなあと。 小黒:なるほど。ツボを探して、そこを押すのがリーダーである長谷川君の仕事なわけだ。 長谷川:そういうポイントを見つけてみたかったんだけど、テレビシリーズをやっている間は、林さんはシッポを出さなかった。何でも巧く描いてくれるんで、「ここに執着しているのよ」っていうところが見つけられなかった。そこは林さんの禁断の領域というか……。 林:はい。まだ誰にも見せていません。 長谷川:オレなんかは、仕事でも好きなところや、執着しているところなんかを、全開で出しちゃうんだけど、そういう意味では林さんは余裕があるのか、なかなかシッポを出さんなぁ~っていうところはあります。 小黒:本人と作品に距離があるってことかな? 長谷川:どうなんでしょうね。 林:これから見せるかもしれませんよ。 長谷川:これから? 林:うん。 小黒:作画に関しては、テレビシリーズの『ウテナ』を、もう1年見たかったね。あのまま作画のテンションが上がっていたら、どうなったかを見たかった。 長谷川:あの辺で終わってよかったですよ。あれ以上続けると、えらいことになっていたかもしれない。みんながエゴだけで描くようになってしまったかも。テレビシリーズは、みんなのやりたいことが出始めたあたりで終わったから、いいタイミングだった。 小黒:絵のテンションは最後まで高かったよね。 長谷川:そういう意味では理想的な終わり方でしたね。普通なら疲れるんですよ。「こんな大変な絵を描いていたら、もうヘトヘトだよ」っていうことになるんです。だけど、体力的な限界を興味でカバーするというか、やっぱり好きなことをしている時は、徹夜しても疲れないでしょ。そういう意味では、それぞれの欲求をを、うまく絵にぶつけられたんじゃないですかね。 小黒:描き下ろしの話に戻すけれど、『ウテナ』の描き下ろしは、テレビシリーズの中盤あたりから、ちょっとアートっぽい方向にいくようになったよね。そのあたりについてはどうなの? 長谷川:「ウテナならでは」というか、希少価値でありたかった。僕にとって、究極のテーマは「服を着ていても裸に見えるような色気」なんですが、サービス過剰なあまり思考停止してビジュアルにどうも関心が持てなくなった。その辺はウテナのテーマでもある「敢えて見せない、抑圧を加えることによる快楽の増幅」にも通じてますが。 小黒:いわゆるアニメっぽい絵の気持ちよさを追求した絵……つまり「アニメ度数」の高い絵じゃない方向性にいってみたいと。 長谷川:「アニメ度数」に関係なく、裏に別のニュアンスが感じられる絵にしたいですね。 小黒:アートっぽい絵って、いわゆる「アニメ度数」に関しては弱いわけだよね。だけど、アニメ絵の気持ちよさが、浮き彫りになるみたいなかたちにもっていってもらいたいと思うんだけど。 長谷川:わかります。アニメの現場を離れてイラストレーターをやるなら何やってもいいんだけど、この仕事をやるからには、そういう「アニメ度数」をどこかで考えておかないと。切り捨ててしまうわけには、いかないですからね。 小黒:それでは、今後、どんな絵を描いていきたいかという話でシメにしましょう。 林:私は劇場版が本格的に動き出したら…シッポを見せたいですね(笑)。 長濱:シッポ?……ああ、本当はついてないシッポをね。 小黒:長濱さん、攻撃的だなあ。 長濱:一応ね。こういうことは言っておいた方がいいんですよ……。そうしたらホントに出してくれるんです。 長谷川:そうだね。林さんは自分からは、絶対にシッポを出してくれないと思う。 長濱:だから「ついてないだろう」と言い続けていれば、いつの日か「ありますよ、ほら、ここに」って言って出してくれるにちがいない。だから、言い続けないと(笑)。 林:ひょっとしたら、すごい長いやつが出てくるかもしれないですね(笑)。 小黒:そんなことをして、この人がつぶれちゃったらどうするの。 長濱:林さんが?大丈夫ですよ。そんなヤワじゃないですよ。 林:そう言われると……う~ん、嬉しいんだか、哀しいんだかわかんないですね。 小黒:そういう長濱さんは、どうですか? 長濱:「どんどん絵を描いていけば、なにか結果がでる」という方法よりも、1ランク上でなにかできるといいかな。 小黒:方法論変えるということ? 長濱:そうです。そういう形でできればいいなと思います。 小黒:かっこいいね。 長谷川:それで、いいと思うな。 小黒:長谷川君は? 長谷川:劇場版に関しては……、当面は林さんのシッポを出させるのに全力投球したいです。 林:シッポのことは、忘れていいですよ(笑)。 長谷川:そのための劇場版です。 一同:(笑)。 林:わかりました。期待していて下さい。ものすごいモノを……。 長濱:何もないのは、わかっている。 一同:(笑)。 小黒:劇場版はもうすぐ脚本が上がる予定です。 林:あっ、楽しみですね。 長谷川:劇場版では、ストーリーが、かなりインパクトのあるものになりそうですから。絵の方も単純に脱がすだけでは、もう追っつかないってことになるでしょう。話のインパクトを凌駕するようなビジュアルを出さないと。……脱ぎ方そのものを変えたいですね。 小黒:脱ぎ方って、キャラじゃなくて、自分の? 長谷川:そうです。 小黒:テレビの『ウテナ』の終わり方って、毎週1本作っているからこそ生まれる勢いみたいなものがあったよね。映画版では、その週間ペースの勢いは出ないわけだから、それに代わる何かが生まれることに期待したいですね。 長濱:たしかに勢いだけじゃ難しいから、工夫しないといけませんね。 長谷川:勢いに代わる何かを見せられるように、スタッフ一同頑張っていきたいと思います。 (1998/3/28 ビーパパススタジオ) |
映画化決定記念 榎戸洋司×さいとうちほ 対談
|
- 2007/11/15(Thu) -
|
榎戸洋司(シリーズ構成) VS さいとうちほ(原案・漫画)
『少女革命ウテナ』映画化決定記念による対談 ビーパパスの面々、映画の抱負を語る 徳間書店「アニメージュ」 98年03月号より ――では、後半戦です。さいとう vs 榎戸対談ということで始めましょう。 榎戸:『ウテナ』も企画段階からだと、もう3年間近くやってきた事になるんですが、その間、僕らは、さいとう先生に甘えっぱなしだったなと思うんです。 さいとう:いえいえ。 榎戸:甘えっぱなしで、さらにこういう事を言うのも何だけど、TVシリーズの『ウテナ』では、結局、作家である、さいとうちほを崩せなかったかなって思います(笑)。 さいとう:そうかな、ものすごく崩されたと思うけど(笑)。 ――崩せなかったって、どういう意味です? 榎戸:『ウテナ』に参加することで、さいとう先生が新境地を開くようなことになればいいなと思っていたんです。でも、僕らが、さいとう先生が描いたことのないような話や絵を要求しても、さいとう先生は口では「まあ、たいへん」とか「こんなことをするのは初めてだわ」と言いながら、楽々とクリアしてしまった(笑)。 さいとう:ええ~、そうかなあ。 榎戸:先生の懐の広さを思い知らされたというか。 さいとう;確かに、『ウテナ』で初めてやらされたことは沢山あったんですが、榎戸さんや幾原さんに痛いところを突かれることは、滅多になかったというか、出来ないことを無理にやらされることはなかったよね。榎戸さんや幾原さんたちの仕事に、楽しくご一緒させてもらったという感じで。 榎戸:アニメのウテナが、妙に大人びた性格だったのは、さいとう先生のパーソナリティに引きずられたからだろうなって気がします。 友達のために熱血で戦ったりするんだけど、その一方で不思議なくらい落ち着いていて、決闘場で奇妙な体験をしても「何だかヘンテコな目にあったなあ」の一言で済ましてしまう(笑)。 さいとう:え、あれって私の性格なの? 榎戸:そのままでしょ。僕らが作家である、さいとう先生を崩せなかったのと同じように、作品中でウテナが潰れなかったな、という印象はあります。 ――潰れなかったって、キャラクターとしての天上ウテナが? 榎戸:そう。ウテナって、作品中で本音を吐露するようなことがなかったでしょ。 さいとう:そう言われればそうだったね。それだけに割と傍観者的で。アニメの方だと、シリーズの中盤までウテナがストーリーの中心になっていなかったから。物語の中で埋もれちゃうんじゃないかって危惧していたんです。でも、何故か最後まで図太く物語の中心にいて。 ――さいとうさんと他のメンバーは、『ウテナ』では、どんな風に仕事をしていたんですか。 榎戸:前の頁の対談で、幾原と長谷川君が、演出家と作画監督の線があやふやになっているって言っていたけど、確かにビーパパスに関しては、それでOKかなと思う。 ――と、言うと? 榎戸:監督があるビジョンをもっていて、それを僕が脚本にして、それをまた監督が絵コンテにして、それに従って長谷川君が絵を描くというような、機械的な感じじゃなかったですね。 さいとう:確かにそうだよね。私は共同作業で作品を作るのは初めてだったんですが、「このやり方は、普通じゃないんだろうな」とは思いながら参加していました。なんだか、ハードに仕事をしているっていう雰囲気にはならなかったよね。 榎戸:さいとう先生や幾原や長谷川君と「人生とは何か」、あるいは「恋愛とは何か」っていうことを、しょっちゅうディスカッションしていたような気がする(笑)。時には、そういうことが作品づくりよりも面白くなっていた。 さいとう:そうそう。 榎戸:思い返せば、作品とは直接関係ないような話ばかりをしていたかも。 さいとう:アニメの『ウテナ』は、エッセイみたいな、人生論みたいな、そういう作品だったよね。みんなの、ものに関する考え方が集まって、出て来ていて、そこが私自身は面白かった。そういう意味では、つくづく特殊な作りをしたアニメだなあって思うけど。 榎戸:作っているうちに、目的が「面白い作品を作る」ということから「面白いことをやろう」ということに変わっていったのかもしれない。 さいとう:だから、『ウテナ』を映画にするにしても、どうすればいいのか、まだ見えない。このまま楽しく続けていいのかな。それとも、もっと「大人の仕事」をしなくちゃいけないのかな。 榎戸:きっと『ウテナ』の隠れたテーマは「楽しい大人になる方法」なんですよ(笑)。 ――では、具体的に映画版についての抱負は? 榎戸:僕は、とりあえずゼロからの出発かなと思っています。 さいとう:そうね。私も漫画の最終回を描き終えて、頭がカラっぽになっているから丁度いいかもしれない。 榎戸:放映が終わったばかりで、まだ客観視できないせいもあるけれど。「ウテナらしさ」っていうのが何かというのが難しい。企画段階と、放映開始した頃と、最終回の頃で、それぞれの「ウテナらしさ」があったわけだし。 さいとう:「ウテナらしさ」を意識して作ると、自分が作ったものを自分で模倣することになりかねないから、違う方向目指した方がいいのかも。 ――最後に、もう一言。 さいとう:榎戸さんや幾原さんの出逢いから、私にとっては本当に楽しかったとしかいいようがない日々でした。 榎戸:僕もそういう意味では、『ウテナ』に関しては楽しかったという想いしかないな。 さいとう:このまま、『ウテナ』の映画が完成するまで、楽しければいいなと思います。映画が完成するまでには、何か大変なことがあるかもしれないけど。でも、これから何が起きるんだろうと楽しみに思うくらいですから、私にはまだ体力が残っているのかな。 榎戸:一緒に仕事をしていて、これは凄いなあと思った、さいとう先生の一言があるんです。 さいとう:何なの? 榎戸:仕事の上のトラブルが起きそうになった時に、さいとう先生が「まあ、それはそれで楽しめばいいでしょ」って言ったんですよ。「結局、人生は楽しむか、めんどうくさがるか、2つに1つですから」って。その言葉を聴いた時に、僕には、人生の新しい地平が見えたような気がしました(笑)。 さいとう:ええ~(笑)、私、そんなこと言ったっけ? ☞ 映画化決定記念 ビーパパス座談会 ☞ 映画化決定記念 幾原邦彦×長谷川眞也 対談 |
映画化決定記念 幾原邦彦×長谷川眞也 対談
|
- 2007/11/15(Thu) -
|
幾原邦彦(監督) VS 長谷川眞也(キャラクターデザイン)
『少女革命ウテナ』映画化決定記念による対談 ビーパパスの面々、映画の抱負を語る 徳間書店「アニメージュ」 98年03月号より
――では、幾原 vs 長谷川対談をはじめましょう。さいとうさんに続いて、長谷川さんにも映画版『ウテナ』のイメージイラストを描いてもらいました。どうですか、監督、このイラストは。( 画像 )
幾原:う~~む、こんなものになってしまうとは(苦笑)。 長谷川:マズかったですか。 長谷川:いやあ、いいと思うよ。 ――幾原監督から見ると、今までの『ウテナ』での長谷川さんの仕事はどうでした。 幾原:面白かったんじゃないかな。インスパイアされる事もあったしね。 長谷川:あ、そうですか。 幾原:特に最近のLDのジャケットや雑誌の描き下ろしは、面白いなあと思う。長谷川は、こういう風に見てるんだなあって。独特の解釈が感じられるというか、セクシュアリティを感じるというか。 長谷川:絵の主題が何なのかとか、セクシュアリティに関する事とか、そういう事に関して自分なりの解釈が最近になってやっと見えてきました。『ウテナ』をはじめた頃は、この作品に関するアプローチの仕方に迷いがあって。 幾原:迷いって、どんな。 長谷川:主に「色気」の問題ですね。最初は、少女漫画だから、禁欲的に描かなくちゃいけないんじゃないかと思って、抑えて描いていたところがあったんです。 でも、さいとうさんの絵を研究しながら描いてるうちに、少女漫画でもすごい色気が出せるってことがわかって、描き進むうちに、自分の中で「色気に対する感覚」と「少女漫画の感覚」が一致しましたね。それが『ウテナ』での、一番の収穫でした。これで、男の子向けの色気のパターンと、少女漫画における女の子向けの色気パターンの2つを会得できたので、無敵かなと思っているんですけど(笑)。 一同:(笑)。 ――『ウテナ』で3年間一緒に仕事をしたわけですが、長谷川さんから見て、幾原さんの仕事はどうでした? 長谷川:うーん。 ――あれ、キケンな事を聞いちゃったかな。 長谷川:何ていうのかな。ある意味ドライな感じですね。ひとつの事にとらわれないというか、違ったところを見ているというか。僕なんかは絵描きだから、絵を描く行為そのものにこだわって、クオリティのみを意識したりするんですけど、幾原さんはそうじゃないんですよね。そういう仕事への取り組み方もあるんだなっていうのが、勉強になりました。 ――違ったところを見てる、ですか? 長谷川:うーん、何でしょうね。大人の仕事をしてるって事かなあ。 ――だそうですけど、監督、どうですか? 幾原:そうかなあ(笑)。正直な話をすると、オレは長谷川の仕事ぶりっていうのは、よくわからない。距離が近すぎるからね。だから、長谷川も監督としてのオレの仕事ぶりっていうのはわかんないんじゃないかな。 長谷川:うーん、どうですかね。 幾原:一緒に仕事をしすぎちゃって、境界線がわかんないよ。オレが演出なのか絵描きなのか、長谷川が演出なのか絵描きなのか。オレも、普通だったら絶対に絵描きに言わないような失礼な事を長谷川に言うし、長谷川の方も絶対に監督に言わないような豪快な事をオレに言うし……。 長谷川:そんな事を言いましたっけ(笑)。 一同:(笑)。 長谷川:確かに、監督として幾原さんについては、よく分からないかもしれないですね。 幾原:オレも長谷川が絵描きだからといって、絵の事を任せっきりにはしないし、長谷川も、内容の事を全部任せはしない。 ――お互いに相手に依存しきらない関係というのが良かったんですかね。 幾原:でも、それは、単に互いを信用していなかったって事かもしれない(笑)。 長谷川:でもそのおかげで、ある意味、適度な緊張感が……。 一同:(笑)。 長谷川:僕は、幾原さんに到らぬ所を指摘してもらって、すごくありがたいなって思っています。 ――その微妙な距離感が、二人のチームワークの秘密なんですね。映画についての抱負も聞かせてください。 幾原:どんなドラマになるかはわからないけど、表現については思っている事があるんだ。モラルとファッショに挑んでみたいと思っている。 ――ファッショ、ですか。 幾原:さっきも言ったように、長谷川の絵にインスパイアされることがあって。レーザーディスクのジャケットで、枝織と香苗と梢の3人の絵とか( 画像 )、石蕗を挟んで茎子と若葉が一緒にいる絵とか( 画像 )、ファッショ的なものを感じるね。そこで、ファッショ的なものがかもし出すセクシュアリティというのを……。 ――ファシズムのファッショですか。 幾原:そうだね。それは、『ウテナ』の当初の狙いだった事でもあるんだよね。学生服で統一したり、男装していたり、それを徹底してやれなかったような気がする。途中からそれ以外の要素が強くなりすぎたから。 映画ではmそういうファッショ的セクシュアリティを、モラルとぶつけたいなと。何となく、漠然と思っている。 長谷川:この場合のファッショっていうのは、押さえつけられた感じとかそういう意味ですか。 幾原:ファッショの抑圧があって、そこからさらにセクシュアリティに羽ばたいていくというか。 長谷川:ん~~む、やっぱり、アブナイものになりそうですね。 幾原:レーザーディスクのイラストの石蕗や七実の目を見ていて「分かった!」という気がした。耳元で、あなたの行くべき道は用意してありますと囁かれたような気が(笑)。 ――最近の長谷川さんの描き下ろしイラストは、独特の宇宙を築いていますよね。 長谷川:描き下ろしに関しては、アニメ『ウテナ』の作品世界と違う何かを入れようと、いつも考えてやっています。多分、本編と同じ世界観で描くと、ストーリーに負けちゃうんですよ。 幾原:なるほど、ストーリーと戦っていたわけだ。 長谷川:自分なりに突っ張った成果が出たかなって感じですね。 ――モラルは、テレビの『ウテナ』でも大事なモチーフだったわけですよね。 幾原:ドラマとしてはね。ただ、映画版では、ドラマという事ではなく、表現として、モラルが扱えたらいいなと思っている。 長谷川:なるほど。 幾原:と、今は思っているけれど。いざ、作りはじめたら、全然違うものになるかもしれないけどね(笑)。 ☞ 映画化決定記念 ビーパパス座談会 ☞ 映画化決定記念 榎戸洋司×さいとうちほ 対談 |
映画化決定記念 ビーパパス座談会
|
- 2007/11/15(Thu) -
|
『少女革命ウテナ』映画化決定記念による座談会
ビーパパスの面々、映画の抱負を語る 徳間書店「アニメージュ」 98年03月号より
――幾原監督。ウテナが映画になるって話を聞いたんですが、ホントですか。
幾原:そういう噂があるみたいですね。 榎戸:一応、企画進行中です。 長谷川:実は、今まで黙っていたんですが、僕はテレビ版の放映終了後から、休む間もなく、映画版のデザインをはじめています。 幾原:ええ、そうなの? さいとう:実は、私も着々とイメージイラストを進行させていました。 幾原:知らなかった。監督のオレの知らない間に着々と映画版は進行していたのか(笑)。 ――この次のページに載っている、さいとうさんが描いた映画版のイメージイラストですね。( 画像 ) さいとう:ウテナが、脱いだ後に新しいコスチュームになるといいなと思いながら描いたんですけど。 長谷川:脱いだ後、ですか? さいとう:ウテナが古い衣装を脱ぎ捨ててですね、新しいウテナになるといいなと思うんですけど。 榎戸:(イラストを見ながら)う~む、映画『ウテナ』が子供にも観られるアニメだといいなあ。 一同:(笑)。 長谷川:映画版も、子供が見られる内容じゃないとマズイんですかね。 ――子供が見られないような映画になるかもしれないんですか。 幾原:長谷川は、本気でそんな事を考えているの? 長谷川:だって、劇場版をやるっていう事は、テレビで不可能だった事をやるって事じゃないんですか。 榎戸:でも、『ウテナ』に関しては、テレビでも、やりたくてできない事は無かったんじゃないの。 長谷川:かなり自由にやらせてもらいましたけれど、まだ、やり足りない事はありますよ。 さいとう:まだまだ、たぎっているんですね。 幾原:(悩んで)う~~ん。やっぱり、子供でも観られるものにしないとマズイんじゃないか。 一同:(笑)。 長谷川:そうですか。 ――さしあたって、映画化するのは決定なんですね。 幾原:まあね。マジメな話をしちゃうと、キングの大月(俊倫)さんからは、準備を進めろと言われてるんだ。具体的なことはまだ、決まっていない。 さいとう:内容について全然考えていないわけじゃないんでしょ。 幾原:テレビシリーズのストレートな続編というのはちょっと難しいんじゃないかな。 さいとう:そうなの? 私のところに、ファンの人から「最終回でウテナは死んじゃったんですか?」っていう質問が何通もきているんだけど。そういう質問に答えてあげるつもりは、全然ないのね(笑)。 幾原:そういう疑問に答えてもいいんだけど。オレ自身は、あんまり、そういう事に興味ないから(笑)。 一同:(笑) 榎戸:サービス精神に欠ける発言だなあ(笑)。 幾原:作品を作ったオレがどうこう言うよりも、観た人が……。 さいとう:観た人が自由に解釈して構わない。 幾原:そういう事です。 長谷川:という事は、テレビと映画版は切り離して考えた方がいいんですか? 幾原:内容はともかく、テイストとしては、テレビの『ウテナ』以上に、『ウテナ』らしさを極めたものにするべきかなとは、思っているけど。 さいとう:テレビ版以上に『ウテナ』らしい? 長谷川:なるほど。 榎戸:『ウテナ』らしさの定義が、とりあえずの課題だな。 幾原:それを映画館で、子供にも見てもらえるようなものにしなくては。 長谷川:それは大丈夫ですよ。観せなければいいんです。アブないところを見せなければいいんです。 さいとう:見せないって? 長谷川:例えば、ハダカは一切見せないんだけど、見終わった後に登場人物全員がハダカであったかのような印象が残るっていうのが、僕の理想なんですけど。 幾原:それはいいね。それは確かにいい。 さいとう:マジなの? 長谷川:テレビシリーズでも、脱いじゃってるシーンて実はほとんどないんですよ。 榎戸:脱いでるようなムードはあるんだけど、ハダカ自体は見せてないっていうシーンが多かったよね(笑)。 長谷川:究極は、キャラクターが服を着て立っているというだけで、観ている人にハダカを感じさせたいんですが。 さいとう:具体的にはどういう事? ポーズとかで色気を表現するという事? 長谷川:そうです。クラシックバレエなんかも、テクニックを究極まで突き詰めるとそういう事になるんじゃないですか。ポーズや仕草で、何かを表現したり……。 さいとう:なるほど。 ――というわけで、皆さん、映画への意欲満々なんですね。 長谷川:やる気満々です。 榎戸:ふふふふ。 さいとう:がんばります。 幾原:まあね、大丈夫でしょう……たぶん(ちょっと気弱)。 榎戸:まあ、監督がこれだけ自信たっぷりなら、大丈夫でしょう(笑)。 幾原:いや、弱気なんだってば。 一同:(笑)。 さいとう:映画も、また、エロスを追及する作品になるんですか? 榎戸:「また」っていうのは何なんですか(笑)。 ――テレビの『ウテナ』は、エロスを追及した作品だったんですか。 幾原:ビジュアル的には、ベースにそういうところがあっただろうね。別にワイセツな事をやっているって意味じゃなくてね。それはたぶん、映画でも同じでしょう。 榎戸:そうそう、エッチではなくセクシュアリティです。同じか(笑)。 ――放送開始前は「ロマンの作品」だって言ってたのに、どこでエロスの作品になってしまったんですか。 さいとう:そうだよね。私は「ロマンに満ちた作品をやりたい」って言われて、参加したのに……。 榎戸:いや、基本的にさいとう先生の本質に僕たちが近づいただけだと思う。むしろ、さいとうさんのテイストが出て、そういう作品になっていったんじゃないのかな。 さいとう:ええ、そうなの。私のせいなの? 一同:(笑)。 ――それでは、以下の頁では2人ずつの対談というかたちで、映画の抱負を語ってもらいましょう。 ☞ 映画化決定記念 幾原邦彦×長谷川眞也 対談 ☞ 映画化決定記念 榎戸洋司×さいとうちほ 対談 |
ビーパパス座談会
|
- 2007/09/02(Sun) -
|
「少女革命ウテナ」放映最終日にビーパパススタジオで行われた座談会
青林工藝舎出版「少女革命ウテナ 薔薇の黙示録」より
――お疲れ様でした!たった今最終回を見終えたばかりですが、皆さんの感想をお聞かせ下さい。
榎戸:もう、感動しました。涙、涙の最終回ですね。 小黒:イヤなヤツだなぁ(笑)。さいとう先生は? さいとう:キャラクターが涙を流すと一緒に涙を流してしまって。最後にアンシーが生まれ変わったようになってるのがすごく眩しくって、ピンクのドレスを着たらすごく奇麗になった感じがして、これからまた新しく始まるっていう雰囲気がすごくスタイルに出てて、印象的で驚きました。 小黒:僕は、絵コンテ見た時は「まったくしょーがねーなぁ。こんな話じゃ子供が全然分かんねーじゃんかよ」とか思ってたんですけど(笑)。でも仕上がったものを見たら、ものすごく画面が充実してて、非常に感銘を受けました。 長谷川:この最終回はとにかく勢いで乗り切りました。失敗するかもしれないものを、敢えて直球勝負で挑んだっていうか…。締切まで二週間しかなくて、みんな「破綻する」とか「絵コンテ見てムリだと思った」とか、そんなことばっかり言うんですよ(笑)。少ない時間で終わるかどうか本当に不安だったんですけど、各スタッフの皆さんのお蔭でこんなにいいものが出来て、ありがとうございました。感無量です。 幾原:まあ、人生イロイロ…と。自分じゃ客観的にはよく分からないけれど、でも今最終回を見てて、終らない話をやってるんだな俺は、っていうのを、なおさら実感したね。どの作品でも、何で終った気がしないんだろうって思ってたけど、多分俺が終らないようにしてるんだなって(笑)。 長谷川:今ごろ気がついたんですか? 幾原:終らない話作っているなんて言うと、二度と俺の作品をまともに見てくれる人はいないかも。「どうせまた終んねーんだろー」って(笑)。 さいとう:でも、そう言いつつ嬉しそうだよ。 幾原:ドラマの内容は39本中で一番テレ臭いね。 さいとう:最終回は今までとは別な話みたいな感じがした。やっぱりいつもの番組じゃないなって感じかなぁ。 幾原:いつもだと音楽の使い方も、わりとキャラクターから切り離しちゃってたけど、最終回はキャラクターの心情にベタベタにつけたから、他の話数とはだいぶ印象も違うはず。そういう意味では見やすい話数だよね。気持ちも入れやすいし。 小黒:気持ちは入れやすいんだけど、起きてることが何だかわからない(笑)。 ――ラストシーンでエンディングテーマを変えたのはなぜですか? 幾原:キングレコードの大月さんが、一番最初に「これを主題歌にしたい」って持ってきたのがあのハミングだけのテープで、まだ歌詞がついてなかったの。俺もそれを聴いていいな、と思って。やっぱり一番最初に聴いた音楽からインスパイアされたものが多いんだよ。だから最後にちょっと初心に戻りたい、最初の印象に帰りたいと思って。 ――ウテナを手掛けてから、皆さんご自身の中に革命は起こりませんでしたか? 幾原:いろいろと起きましたよ。勉強になったとしか言いようがないけれど。それに、やっぱりスタッフあってのものだなって感じしますよね。 長谷川:僕の場合、とにかく二年間すごくプレッシャーが強くて、一時は潰れかけたことがあって(笑)。最初の合宿の時からケチついちゃいましたから、僕。 小黒:あれがプレッシャーの始まりだったんだ。その上さいとう先生がまたどんどんプレッシャーかけて(笑)。 さいとう:えーっ! そんなこと絶対ないよぉ。 長谷川:いや、自分で勝手にそういうモードに入ってしまって、被害妄想とメチャクチャ闘ってましたよ(笑)。うまく描かなきゃ、成功させなきゃって考えれば考えるほど、キャラクターの表情が死んで行くようで。でもそれじゃイカンな、ってある時考えをガーッって変えて、それで自分が一番描きたいものを描こうと思いまして。 幾原:それは1話の前でしょ。 長谷川:いや、それに気がついたのはわりと最近のことで、それからは裸の絵も平気で描けるようになりました。 幾原:そうなんだ。 長谷川:そういう絵を描いてると、自分も気持ちいい(大爆笑)。 ――榎戸さんの革命は? 榎戸:革命を終えてこの番組の企画を始めたような感じだったんで、思ってたことは大体全部できたかなと思ってるんです。でもひとつだけ心残りなのは、監督の案で、ウテナがキノコ狩りに行く計画をしてたんですけど(大爆笑)。結局企画段階でカットになってしまって。 幾原:キノコ狩りは途中であきらめて、栗拾い、というシナリオを書きかけてたんだけど、シナリオライターが「どうやって栗拾いだけで三十分ももたせるの?」って(大爆笑)。 小黒:いやぁ、それは実現しなくてよかった(笑)。 さいとう:私は、とにかく初めてづくしで、アニメに拘ったにも初めてだし。私の他のマンガ作品にも多かれ少なかれ影響が…。いつもはラブラブな二人がハッピーエンドになる話を描いていて、同性愛っぽいのは絶対ヤダって言ってたのに、そういうのも面白いか、と思うようになって、これは何かビーパパスの影響を受けてしまったなって(笑)。でもお蔭でマンガ賞も取れたし、ヨカッタのかなぁ、って(笑)。 ――小黒さんはどうですか? 小黒:長かった、とにかく長かったね。三年前の春、さいとう先生に会ってキャラクター原案を頼んで「全てはうまくいくよ!勝ったも同然だ!」とか言って。それから次々に壁にぶち当たるたび「これさえ乗り越えれば勝ったも同然だ!」の繰り返しだった(笑)。 幾原:あの頃は月に一回ぐらいの割合で追い詰められて深刻になって、もうダメかもしれないってね(笑)。 さいとう:奇跡のような三年でしたねぇ。よく無事にここまできたなぁって。私、絶対に39話まで出来ないと思ってた(笑)。 長谷川:僕も、二年間スタジオで寝泊まりなんかもうこりごりですよ(笑) ――皆さんが深く印象に残っているのは何話ですか? 小黒:ストーリーとしては7話『見果てぬ樹璃』と26話『幹の巣箱(光さす庭・アレンジ)』だね。7話は幾原君はこうするだろう、っていう予想をフッて乗り越えたものだったし。26話は絵がすごくよかった。長谷川君の絵は12話『たぶん友情のために』がいい。 長谷川:ありがとうございます。自分の監督担当は半分ですけど。 さいとう:あの回は冬芽がエッチですごくいい。ロングショットから、冬芽をカメラであおっていく感じのところ、冬芽の表情もフリもエッチで。 長谷川:あれは確かさいとう先生と対談した後だったからだと思うんですよ。そこでバレエの話が出たんで、ムード重視の動きを結構意識してました。 さいとう:そうそう、長谷川さんにバレエのビデオを観せて、なんとかお願いします、って(笑)。 ――さいとう先生はどうですか? さいとう:何か、途中からバッって胸をはだけるのは驚きました(笑)。キャラクターのみんながやり始めた時、唖然としてしまいました。ビジュアルショックですよ(笑)。 小黒:あれはさいとう先生の好きな意味での胸はだけと違うんだよね。流派が違う。 さいとう:そうそう。男性の描く“胸はだけ”ってこういうもんなのか、って思いました。男の人がやると、ああまで直接的になるのかなぁって。男と女の違いを実感しました(笑)。 ――榎戸さんはいかがですか? 榎戸:22話『根室記念館』です。シナリオ書いてても具体的なことが何も出てこなくて何だか恐くなっちゃって。でも幾原と長谷川君が何とかしてくれるだろうって、無責任に書いてしまって。でも実際フィルムみたらちゃんとしたものになってて、ありがたいなって。例えば30話『裸足の少女』で、ウテナと暁生がキスする話なんか、普通あれだけで三十分引っ張るのは辛いと思うけど、「ウテナ」の場合は演出とか作画の人が好きなことやるだろうって安心感がありましたね。 小黒:あえてシナリオでは真面目な話してるのに、フィルムになると野球してたりする、ってのはどう思うの? 榎戸:どうせやるだろうなってのは分かってましたから。「ああ、今日は野球かぁ」って(大爆笑)。 ――長谷川さんは? 長谷川:僕はやっぱり1話『薔薇の花嫁』です。ロケハンを何回も重ねたり、ビジュアルを作り上げて言ったり、ディスカッションを重ねながら、まったくゼロのところから作っていって、初めて形になったのが第1話ですから。苦労も多かったけど、やっていて一番手応えを感じましたね。 でも後々になって観直すと、まだ絵がボヤッとしてるっていうか、監督にも当時散々指摘されてまして「絵がおかしいよ」って。でもその頃はベストだと思ってたから「どこが? 全然いいじゃん」とか言ってたんですけど、後になると1話を見るのがつらくなってしまって(笑)。 榎戸:ちょっと硬いんですよね。 小黒:途中からだんだん絵のテンションも上がっていったよね。25話『ふたりの永遠黙示録』くらいからスパークしてた。 長谷川:胸はだけでは、ピークだったのが35話『冬のこと芽生えた愛』ですね。もうあの頃は現場で脱がすのが流行ってて。誰がどれだけ脱がせるかって(笑)。絵コンテではそんなこと全然やってないんですけど。 幾原:監督の俺ですら全然知らない間にそんなことになっててさ。コンテでは裸になってないのに(笑)。 長谷川:あれは現場で競う楽しさです。久々に味わいました。 ――幾原さんの印象に残った回は何でしたか? 幾原:俺もやっぱり1話、それから7話、23話、25話、それに最終回の『いつか一緒に輝いて』。 1話は今だから言うけど、半分自分が何やってるのか分からなかった。これ一体どうなってしまうのかなって(笑)。ただ「絶対運命黙示録」がかかった時に、なんかイケそうだなって思って。他の作品では絶対に出し得ないようなカラーはあると思ったし、貴重で珍しい作品になると思ったよね。 7話は、実はシナリオですごくもめてさ。榎戸には申し訳なかったんだけど、「これなかったことにしてくれ」って一度仕上がったものを全部チャラにしてしまって。というのは、あまりにもよく出来てたんで、完結しちゃいそうな気がして「もっと分かんなくしてくれ」って言ったの(笑)。 そこで実は樹璃は枝織が好きで、という関係が出てきたんだけど、その話が出た時に、逆に39本まで何をやっていけばいいのかがハッキリと分かった。僕自身もそれまではずいぶん揺れてたけど、「あ、これは要するになかなか勝てない人達、永遠に敗北し続ける人達の話をやっていけばいいんだ」ってね。 さいとう:敗北者なんだ…。 榎戸:敗北者っていうか、一話一話で問題に決着をつけるのはやめよう、ってことで、そういう意味では確信犯的にやろうと思ったのは、7話からだったのかもしれませんね。 幾原:敗北者って言っても、人によっては取りようがあると思うんだけど、「なかなかうまくいかないのが人生」っていう、自分の現状とずいぶんリンクしてて、こういう題材なら39話までつき合えそうだなって思ったんだよね。単純にお姫様と王子様が出会うだけの話だと、付き合えそうな感じがしなかった。 ――23話は…。 幾原:さっき榎戸が言ったのとまったく同じで、7話の時と同じでシナリオが良く出来てたのね。つまり、よくできたSFというかファンタジーのような作品として解釈されるんじゃないかって恐怖が。何とかそれを回避しようとして、ああいう話にしてしまったんだけど。 25話は、出来上がったフィルムを見て随分励まされたよ。コンテも演出も作画もベストだった。あと最終話は、企画発端の時に持ってた心境とかなり近しいものだったと思うんだよね。それが具体的にフィルムに仕上がって行くのを見るにつれ、自分の現実とリンクしてきたという感じで。 小黒:具体的には? 幾原:ウテナが消えてしまう、暁生は自分を王子様にしてくれるシステムに異常に固執してた、アンシーは最後にリスクを背負って扉の外へ出てしまう、という三人三様の状況は、どう伝えたいということではなく、とりあえず自分としては正直な心境である、伝えたいんじゃなくって心境である、って感じで、自分にとってはずいぶんリアルなフィルムになってるなぁって。 さいとう:出来上がったフィルムを見たり、幾原さんの話を聞いたりすると「これは話を作りたいんじゃないんだ」っていうのがよく分かります(笑)。 榎戸:自分のシナリオワークの方向でまとめて「これでどうだ」ってやってたんですけど、幾原がそれを見て「良く出来てるねぇ」って一応ホメるんです。なんかすごくイヤそうに(笑)。「良く出来てる話ってのは良く出来た話だよ!」ってイヤミっぽくね。なんだこのリアクションはって(笑)。 幾原:こんなに見事にアニメになりやがってってさ(笑)。 榎戸:でも、そういう事を続けていかなかったら、39話まで続けられなかったと思います。前半はさいとう先生に「よくまとまりましたね」って言ってもらえると安心してたんだけど、後半の方は「えーっ、そんな事するんですかぁ~」って文句言われるような事がいいんだなって(笑)。「暁生がこうするんですよ」とか言ったら「ええっ!」っていうリアクションが大きければ大きいほど、何となく安心するんだ(笑)。 さいとう:でも、それは最初から予感としてあった(笑)。私がイヤがったりすると異常に喜んでるんだもん(大爆笑)。 ――「少女革命ウテナ」は長い時間をかけて企画されたわけですが、その間に出た案で使用されなかったものなどを教えて下さい。 幾原:ウテナをやろうと決めてからは、そんなに大きな変化はなかったような気がするけど…。 小黒:さいとう先生に企画を持って行った時、すでに“男装麗人物”ではあったからね。 榎戸:『黒薔薇編』は最初の企画にかなり近いですね。 小黒:そういえば“理科教師の西園寺”っていう設定が以前あったね。 ――西園寺が理科教師なんですか? 榎戸:そう、かなり性格の曲がったヤツで、いつもお母さんに甘えながら、女生徒にひどい事をすると、ウテナがこらしめる…。 小黒:で、美少年のゾンビを操ってウテナを襲う…。最初の企画から決闘物に変わった時にもまだ“理科教師の西園寺”の存在はあったよね(笑)。でも最初、ウテナは理想の人とハッピーエンドを迎えることになってたんじゃないの? 幾原:それはもちろん。 小黒:僕はそのつもりで見てたら「えっ?」ってなって。 さいとう:途中からどんどん話が変わっていっちゃって(笑)。 幾原:やっぱり自分の現実とリンクさせたかったのかな? さいとう:でも結局何だったんだろうね、友達とは、友情とは? 榎戸:決められた価値観を破ろうってことだよ、革命っていう言葉をタイトルに使っているくらいですから。 長谷川:でも「本当の友達がいると思ってるヤツはバカだよ」っていう冬芽のセリフは辛辣でしたね。 幾原:友達とか友情とかっていう単語に、多分今の人って恐がっていると思う。一人では生きて行けない、という事は何となく分かってるんだけど、友達とか友情とか、道徳が与えてくれた言葉の規範では、一緒にいられないっていう危機感は抱えてるよね。キレイ事だけではなかなか生きていけないっていうか。 で、それに変わる言葉を模索してたんだけど、なかなか見つからなくてさ。じゃあ、見つからない変わりに、逆にそうじゃない言葉っていうので周りを埋めて行ったっていう事だと思うんだよね。 榎戸:あのセリフはドラマとセットだと思います。あの回で冬芽と西園寺がやってる事って、普通の高校生とかも「いいじゃん、友達じゃん」って使ってると思うんですよね。で、裏に回ると自分もそういうことをやっているのかなって、ちょっと恐くなってしまって(笑)。 幾原:友達っていう言葉で覚えるフィールドや規範じゃ生きて行けないってのが分かってるだろうから、そこいら辺にきっとピンときたりね。 ――劇場版はもう決まってるんですか? 小黒:僕らの心の中ではね。ウテナの活躍はまだ続きますよ。アンシーもね。 幾原:大活躍ですよ、もう(笑)。 ――それでは最後に一言お願いします。 幾原:(アライグマのイロイロを膝にのせつつ)これからも僕はイロイロと生きて行きます(笑)。 榎戸:わかんないよ、それじゃ(笑)。 長谷川:僕は幻のスパイスを探しにインドに行きます。 榎戸:「少女革命ウテナ」は僕の青春でした。 さいとう:あ、ズルイなぁ。じゃぁ、私は『三十代の全てをウテナに捧げた女です』ってことで(大爆笑)。 榎戸:ま、これほど好き放題にやれる仕事は、今後出会えるかどうか分からないなぁ。 幾原:でも最後までやりきれたのは奇跡だよね。毎回毎回こんなにうまく行くわけではないと思うけどね。 小黒:次も同じメンバーでやったら、多分憎しみのオーラに支配されるんじゃない(笑)。それにしても「ウテナ」は本当に人生勉強になりました。次はもっとうまくやりましょう。 (1997年12月24日/ビーパパススタジオにて) |
「絶対運命予測録」 幾原邦彦×川上とも子×渕崎ゆり子 座談会
|
- 2007/08/01(Wed) -
|
監督・幾原邦彦、天上ウテナ役・川上とも子、姫宮アンシー役・渕崎ゆり子
以上3名による座談会 学研研究社「アニメディア」 98年01月号より
――気になる結末に突っ込む前に、思い出に残るエピソードを、ぜひ。
渕崎:私はやっぱり、ウテナが自分のために冬芽と戦っているときに「つまんないな」「早く帰りたいな」って言ってたあれが強烈でしたね。ああ、彼女はそんなことを考えていたんだなって。 川上:私はどの話とかっていうんじゃなくて、もうウテナの気持ちそのものが、すごく腑に落ちたんですよ。(監督に)何で笑うんですかぁ。 幾原:ああ、そうかと思って(笑)。 川上:もう!腑に落ちたんです。ウテナが悩んだりすることは自分でも思ってたことなんだ、と。すごい運命に流されっぱなしだけど「がんばれよ」って思ってやってきたから、これが終わっちゃうと私の人生も終わっちゃうような気がして……。 幾原:それもまた良しだよ。 川上:よくないです(笑)! 渕崎:周りがあんまり濃い人たちだからウテナの熱血が青く見えるってこともあるし、でもそれが救いっていう部分もありますよね。でも、あの夜、何があったの!?33話のあの夜は! 幾原:見た通りのものですよ。 川上:見た通り聞いた通り?…やん…。 渕崎:暁生ちゃんと!? 川上:あれは、お弁当が心配なんです。 渕崎:何でお弁当が心配なの!?それも伏線なの!?教えて!私、眠れない! 幾原:初めての時って、わりとそういうこと考えるでしょ、わかんないけど。 渕崎:そうなの…その通りなの…。 川上:『少女革命』って恋愛のことだけなんですか。あんなに友情とか正義とか言ってたのに、暁生と、なんかもう……。 幾原:でも、そういうのってあるじゃない。川上なんかも、昔は役者になって一生懸命やるぞ、とか思ってたのに、気がついたら男の人とラブラブになってたってこと、あるでしょ。 川上:…それは、ある、かも(笑)。 ――ウテナたちは変わってきた? 幾原:それは変わりますよ。作っていくうちに変わります。 渕崎:すごく変わりましたね、私。最初の頃のビデオを見ると、驚くぐらい。自分の中で探りながらずっとやってきて、でもまだ見えてこないというか…。そういう意味でも怖いキャラクターだなと思いますね、アンシーは。 幾原:意識するしないにかかわらず、役者さんの声に引っ張られますからね。 ――どのキャラが一番変わりましたか? 幾原:いや、みんなそうですよ。最初、冬芽も胸を開くとは思ってなかった。漠然とそういう人であろうという予感はしてたけど(笑)。でも、子安君の芝居でこの絵でこういうセリフだと脱いでいくだろうと。で、子安君も脱ぎたいと思っているだろうというのが電波でピピッときて、わかったと。子安君、キミのやりたいことはわかった(笑)。彼は違うっていうかもしれないけど(笑)。 渕崎:リハーサルで、小杉さんが何か言ってるので後ろを見たら、監督がブースで大笑いして喜んでる。 幾原:その時は小杉さんの電波を受信したんですよ。わかった、小杉さん(笑)。 渕崎:子安さんと小杉さんの会話、イヤらしくて、スタジオで話題(笑)。 ――幾原監督の演出は異色だから。 渕崎:どうしてここで扇風機が回ってるの、どうして車が刺さってるの(笑)。 幾原:(笑)。 渕崎:チュチュももう二代目でしょ。 幾原:そうですね、一回死んでますから。 ――えっ!?チュチュ死んでる!? 渕崎:「七実の卵」の回で最後にぐったりして帰ってきたでしょ、あれ二代目なんですよ。アンシーが「生まれ変わりを信じますか」みたいなことを言ってて。 川上:でも、変な設定でも、アングラの芝居とかで練りすぎてわかんなくなっちゃうのとは違うから。 幾原:練りすぎて変になっちゃうアングラ芝居!?よくわからん(笑)。 川上:どうしてこうなるの、っていうのあるじゃないですか。でも、そこまでいってなくて、納得できるっていうか。 渕崎:そうなの、そうなの。 幾原:個人的な趣味だけど、絵でも音楽でも役者さんの芝居も全部そうだけど、作った感じが好きなんですよ。そのキャラクターと同一になって演じられる方もいっぱいいるけど、僕はそれより芝居してますっていう感じが好きなんだよね。だから、そういう状況に至りやすいようなフィルムになってるんじゃないかと。 渕崎・川上:なってる、なってる(笑)。 ――さて、じゃあ、ラストはどんな状況に至るんでしょうか。 川上:川上が一番気になってるのは、ウテナが暁生さんとどうなっちゃうのか。 幾原:解決しますよ、もちろん。 渕崎:アンシーと暁生の関係は? 幾原:しますよ。 渕崎:スッキリ、ハッピーエンド? 幾原:もちろん。 渕崎:あたし、このシリーズで完結しないものだとばかり思ってて…。 ――どんな予測をしてるんですか? 渕崎:極論は「死」なんだろうけど、それがアンシーでは当たり前のような…。 川上:やっぱり、ウテナが死んじゃうんだぁ…。AR現場でみんなそう言うんですよ。私、二人で一人みたいなことで納まるんじゃないかと思ってたんだけど。 幾原:合体する(笑)! 川上:じゃなくて、なんか精神的な…。 幾原:精神的合体! 川上:ああ、もう(笑)。ウテナとアンシーは引き裂いて欲しくないんです。せっかく心がつながってきたのに。 幾原:合体、う~ん、ありかも(笑)。 渕崎:でも、ウテナはアンシーの魔力に、魔力だと私は思うんですが、引きずりこまれて守ってくれてると思うんです。だから、悪いのはアンシーかなと思ったり、でも、それも当たり前かな…。 川上:私、暁生さんが「世界の果て」というのは納得いきません(笑)。 幾原:監督を前にして、なかなか大胆な。 川上:だって、「世界の果て」はもっと大きなものだと思ってたから。 渕崎:でも、今はもう暁生さんしかいないようになってるわけでしょ。 ――クライマックスはどの辺に期待してみたらいいんでしょうか? 幾原:う~ん、うまく言えないんだけど、ボク自身30年も生きてきて、気がつくとティーンエイジャーの頃もっとも嫌悪していたタイプの大人になっちゃってるわけですよ。そこらへんをもう一度、自分でひっくり返したいっていうのかな。あの頃はうまくやってる大人って、暁生みたいに見えたんですよね。調子よくやってステイタスいっぱい持ってて。そういうものに対する強烈な嫌悪っていうか…。 とにかく、かつてない衝撃のクライマックスをお見せしますよ。 ――お二人にも最後の抱負を。 渕崎:じゃ、その衝撃的な最後を楽しみに、私は私の思ったままのアンシーで流れのままに、最後までがんばって突っ走りたいと思います。 川上:さっき監督はハッピーエンドっていったから、ウテナは死なないかなと。 幾原:わかんないよ(笑)。 川上:え~っ!?…ということなので、ハラハラしながら最終回を迎えたいと思います、心配だけど…。暁生さんにはヒドイ目にあって欲しいです(笑)。 幾原:でも、暁生だってボンネットに乗って後ろ手で必死に運転してるかもしれないじゃない(笑)。ある程度年を重ねてくると、そういう暁生のがんばりも分かってきちゃうんだよね(笑)。 |
「バーチャルスター発生学」 幾原邦彦×さいとうちほ ドライブ対談
|
- 2007/06/17(Sun) -
|
幾原邦彦(監督) VS さいとうちほ(原案・漫画)
徳間書店「アニメージュ」 97年11月号より
――それでは、今回は第3部の内容に合わせてドライブ対談です。
幾原:じゃあ、さいとう先生、行きますよ。 さいとう:ええ。 (ブァン、ブァン、ブァン、走り出す車) さいとう:うわあ、すごい、スピード。トバし過ぎじゃありません? 幾原:大丈夫、まだ、まだ、こんなものじゃないです。 ――トバし過ぎと言えば、最近の『ウテナ』は、ますますトバしてますね。 さいとう:うん。生徒会室に踏切が出てきた(第22話)のには、ちょっとびっくりしました(笑)。 幾原:ああ、不思議ですよね(微笑)。 さいとう:幾原さん、トバしているなあと思います。最近は、トバした描写がどんどん多くなってきていて、生徒会のシーンはトバしているし、影絵少女もトバしているし、決闘シーンまでトバしはじめたから、トバしているシーンとシーンの間に、ちょこちょこっとドラマがあるというかたちで(笑)。 幾原:確かにね。全体の中で占める割合が逆転してきていますね(笑)。 さいとう:いったい、これはどこまでいくんだろうかって思いながら、楽しく見ています。ただ、私が描いている漫画の『ウテナ』は、普通のドラマのところを漫画にしているわけだから。 幾原:漫画に生かせる普通のシーンが、アニメにはほとんどない。 さいとう:そうなの。だから、なんていうか……やりがいがある作品だなあと思っています(笑)。 一同:(笑)。 幾原:申し訳ありません。 さいとう:いえいえ、アニメの方がトバしてくれると、負けるものかって思って、漫画の方もやる気がでますから。「アニメがそうくるなら、こっちはこういくぞ!」って。 ――初めの頃は影絵少女のシーンがすごく浮いてたのに、今では、他のシーンの方がシュールなくらい。 さいとう:そう、影絵少女のシーンが、なんだかホノボノして見えるよね。人間、慣れというのは怖ろしいものですね。 (ブァン、ブァン、ブァン、走る車) さいとう:第2部の終わりの方では、指差しマーク(第22話)も、面白かったです。 幾原:面白いでしょ。 さいとう:あの指差しマークには、何か意味はあるの? 幾原:ありますよ。あれは画期的なことをやっているんです(笑)。通常、作品の何がどう面白いかという事は、観てる人が自分で感じることなんですけど、それを制作者側が「ココが面白いですよ」という風に補足しているんですよ。 さいとう:そういうわけか……(笑)。 私はひょっとしたら、ものすごい深い意味があるのかなと思ってたんですが何か謎解きの手がかりになるとか。 幾原:もちろん意味もありますよ。 さいとう:本当? じゃあ、どうして窓の外にいた猫が増えたんですか。 幾原:最初一匹だった猫が、可愛い猫ちゃんに出会って恋におちたんですよ。 それで時が経って、子供が出来たんですよ。 さいとう:じゃ、アレは時間の経過を示しているわけ? 幾原:さすが、スルドイですね(笑)。 さいとう:「時」が第2部のテーマだったんですか。 幾原:うーん。テーマではないですけど、「時間」は、この作品ではかなり重要なことですよ。「記憶」と「時間」がね。 (ブァン、ブァン、ブァン、走る車) さいとう:それじゃあ、第3部のテーマは? 幾原:車ですよ(笑)。 さいとう:そうなの? 本当に車がテーマなの(笑)。 幾原:勿論です。鳳暁生が乗っているスポーツカーがテーマです。だから、今回はこうして、ドライブしながら対談してるんじゃないですか。 さいとう:スポーツカーで何を象徴しているの?男性?権力? 幾原:僕が子供の頃にスポーツカーブームというのがあったんですよ。そのせいか僕はいまだに、ああいった車が、子供が持っているような欲を、大人の世界で満たすもの。そういうものに見えるんですよ。大人になると、どんどん、玩具ってなくなっていく。子供の頃は、例えばロボットのプラモデルが欲しかったりするけれど、オトナになるとそういう欲しいものってなくなっていくじゃないですか。 そりゃあ、家とか欲しいとか思うのかもしれないけど、それは、やっぱり玩具とはちょっと違う。車というのは、僕の中のイメージでは、限りなく大人の玩具のイメージに近いですね。 さいとう:ふーん。それに鳳が乗るのはどんな意味があるの。 幾原:ステイタスですね。やっぱり、玩具というのは余裕があるから買えるわけです。ステイタスの高いブランドの車を持っている人ほど、余裕があるということだから、余裕のある大人の象徴物として描いているというのはありますけどね。 さいとう:大人の遊び、大人の玩具。 幾原:そうです。 「贅沢してるな」という感じですね。 さいとう:ふーん。 ――しかも、暁生達は胸元を開けて乗っていますよね。あれも贅沢なんですか? 幾原:ええ、贅沢ですね。さらに、ボンネットにも乗ってしまう。 ――なるほど、確かにそれは贅沢ですね。 さいとう:しかも、走りながら(笑)。 ――監督としては、あれをカッコイイこととして描いているんですか? 幾原:当然ですよ。 ――毎週、冬芽が胸元を開くのも。 さいとう:ええっ、毎週、胸を開くの? 幾原:ええ。 さいとう:それは、楽しみですね(さいとう先生、よろめく)。 幾原:イカしてますよ。 さいとう:うーん。つまり、大人の玩具を持って、胸を開いているというのは何なんですか? 快楽の全てがそこにあるわけですか。 幾原:そうですね。それは近いですね。 世の中で、子供に戻ることを許される人は、少ないと思うんですよ。子供に戻るということは、それだけ本人に余裕がないとできないわけですから。そういう意味では、贅沢品であるブランドものの車の上で裸になっている彼には、そうとう余裕があるのでは、という気がしますね。 さいとう:確かにそれはそうかも知れない。すると、あれは幾原さんの理想の大人に近いわけですね。 幾原:そうですね。あくまで空想の中の、バーチャルな理想としてですけど。その行為以外でも、鳳暁生の存在そのものも、僕のバーチャルな理想です。バーチャルスターですから。 さいとう:じゃあ、鳳のステイタスである車に冬芽達が乗ったり、決闘場にそれに乗って現れることにも意味があるのね。 幾原:そうです。 さいとう:そんな大人の快楽を知っている鳳にウテナは誘惑されちゃうんですね。 幾原:そういうことですね。 (ブァン、ブァン、ブァン、走る車) ――『ウテナ』はこれからクライマックスに突入していくわけですが。具体的には。 幾原:30話からウテナと暁生の、かなり濃密な関わりが出てくるので、ちょっと楽しみにして下さい。 「えっ!?そんなのアリ」ということもやります。 ――クライマックスは、アニメと漫画は違った展開になるんですか。 幾原:いや、基本的には大筋自体は同じですよ。見せ方が違うだけで、やることはあまり変わらないです。 ――漫画の方はすでにクライマックス直前って感じですよね。 さいとう:アニメの脚本と、漫画が同時進行なんです。なるべく、榎戸さんの脚本が仕上がってから、それを生かしながら描こうと思っています。 幾原:大筋が同じなら、後はさいとう先生が描きたいように描いてくださって結構ですよ。 さいとう:全く同じに描くことにはならないと思うんだけどね。ドラマの結論は合わせたいし、テンションの高さでアニメに負けないようにしたいから。 幾原:期待しています。さあ、もっとスピードを上げますよ。 さいとう:もう、行けるところまで行ってください。 (ブァン、ブァン、ブァン、猛スピードで走り去る車) |