「肉体都市と時計の神秘」 キャストコメント
|
- 2013/08/08(Thu) -
|
川上ともこ(天上ウテナ)、渕崎ゆり子(姫宮アンシー)、子安武人(桐生冬芽)、草尾毅(西園寺莢一)
三石琴乃(有栖川樹璃)、久川綾(薫幹)、白鳥由里(桐生七実)、矢島晶子(石蕗美蔓) 今井由香(篠原若葉)、川村万梨阿(影絵少女A子&千唾馬宮)、こおろぎさとみ(チュチュ&影絵少女B子) 渡辺久美子(影絵少女C子)、本多知恵子(薫梢)、西原久美子(高槻枝織)、中川玲(苑田茎子) 高野直子(脇谷愛子)、本井えみ(大瀬優子)、鈴木琢磨(鈴木)、石塚堅(山田)、吉野裕行(田中) 結城比呂(ディオス)、小杉十郎太(鳳暁生) 最終回のアフレコを終えた直後の上記キャストのインタビュー LD「少女革命ウテナ L'Apocalypse 11」封入特典・解説書より ● 川上ともこ(天上ウテナ) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 川上:私の人生今日で終わりかな~って感じです。もお、精根尽き果てたぞと。もお、なんか感動でした。はい。 ――最終回の終わり方についてはどう思いました。 川上:結局『少女革命ウテナ』という作品で、ウテナが革命したものっていうのは、アンシーだったのかなって思うんです。アンシーの心が動かされて、人間らしさを取り戻していったというか。 周囲の人もみんな変わりましたよね。ウテナが頑張ってきたことで、変わっていったのは周りの人の心なんだなあ。 それで暁生さんだけは変われなかったというか。お話の構造的には暁生さんがいちばん可哀想だと思うんです。 暁生さんはなんていうのか……大人なんですよ。 もう青春が終わっちゃってるっていうか、そういう感じなんですね。 そこがウテナと暁生さんの違いだと思うんです。 ――シリーズを通して『ウテナ』という作品にはどんな印象を。 川上:私にとっては、主人公のウテナと一緒に命を燃やして頑張った作品ですね。 今までやってきたいろんな作品も勿論、頑張ってきたんですが、自分がお話の中心になるっていうのが初めてで、魂燃やしてやりましたっていう感じでしたから。 この作品の終了とともに私の人生が終わってしまうような感じがね(笑)。 きっと見てくれている人も、一生懸命なウテナが好きだったと思うんですよ。 こいつクサイなあと思った人もいるかもしれないけれど、私はそういうウテナが好きでした。 彼女とつきあって、自分はなんて汚い人間だったんだろうなって考えさせられたり、純粋な気持ちというものが絶対に大切なものだということを再確認したり、 自分を見つめ直すことができた1年でした。 ● 渕崎ゆり子(姫宮アンシー) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 渕崎:最後はどうなるんだろう、どういう終わり方をするんだろうってずっと気になっていました。 ハッピーエンドになるよと幾原監督から伺っていたんですけれども、でも、実際の最後を見たら「ああ、こーきたか」と思いましたね。 始まってから終わるまで、どんどんどんどんどんどん奥が深くなっていって、最後までどんでん返しがあるお話だったなという印象があります。 ちょっと大人の物語だとは思うんですけども、子供さんにも奇妙な夢を(笑)与えてあげられる作品なのかなと思いました。 私は、このウテナワールドが好きだったんで、終わってしまうのは残念なんですけども、次の展開があるかな? という期待感を残しながら終わったのが嬉しかったです。お疲れ様でした。 ● 子安武人(桐生冬芽) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 子安:僕、一番最初に、このキャラクターはいったいどこまでが地で、どこまでが自分の考えで動いているのか分からない人間だなって思ったんですけど……その通りでした。 ええ、自分の意志というよりも暁生さんへの憧れで、暁生みたいになりたくて、姿形を真似してるみたいなところがある。 それで、あんなふうにプレイボーイを気取っていたんでしょうね。 結局、冬芽も不器用なやつだったわけで、それに関してはホッとする反面、うーん、やっぱり人間だったのかと思いました。 僕も弱い人間なんですけども割と強がりな方なんで、冬芽にも強がりを通してほしかったというか、あまり弱いところを見せないでほしかったという気持ちが若干あるんですよね。 ――演技に関しては。 子安:僕はかっこいい役とか二枚目の役とかは多いんですけども、冬芽のようなプレイボーイで女の子を手玉にとるような役は実はやったことがなくて、新鮮でしたね。 語尾に「なんとかだぜ」って、「ぜ」がついたり、一人称が「オレ」のキャラクターを演じたことは一度もなかったんですよ。 だから、ドキドキしましたね。楽しかったです。そういう意味では。 ● 草尾毅(西園寺莢一) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 草尾:1話ごとに、お話の中にいろんな謎掛けみたいなものがあって、それが最終回であかされていくという、そういったシリーズならではの作り方が印象的でしたね。 ――演じられた役に関しては。 草尾:もうちょっと出番があってくれると嬉しかったですけどね(笑)。 ただ、西園寺君も途中で冬芽に裏切られたりとか、いろんなドラマがあって、パターン通りの二枚目ではなくて、その内面には色々なことがあって、演じていてとても楽しいキャラクターでした。 ――何か印象的だったことは。 草尾:やっぱり第1話! あの時に颯爽と登場してきたカッコイイ彼は、その後、どこへいっちゃったんだろう(笑)。 その辺の落差みたいなものがね、うまく、見ている方々に伝わっていれば嬉しいですね。 それから僕の芝居から「もうちょっと、作品に出たい」という西園寺の気持ちを、見ている方々が感じとってくれると嬉しいな。 ――演技にそういう想いをこめたんですね。 草尾:ええ。それで「ああ、もうちょっと西園寺の活躍がみたい」って思っていただければ、とても嬉しいですね。 ● 三石琴乃(有栖川樹璃) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 三石:『ウテナ』の世界は、私のような一般庶民からすると王宮の中の出来事という感じがします(笑)。 「こんな学園どこにあるんだい」って思うぐらい素敵な世界でしたね。 ただ、何が起こっているのかはよく分からないことが多かったです(笑)、ドラマやセリフで全部を説明しているわけじゃないので。 ある意味不親切でもあるけど、それはこちらに託された部分でもあるのかなと思いつつ、いつか分かったときに「なるほど…。」となればいい、 結論を急ぐ必要はないんだろうって思っています。 ――樹璃に関しては。 三石:「これでいいんですか、監督?」と、毎回、不安を感じながらも、自分にとっての新境地を開拓しようという気持ちで頑張りました。 ――手応えはどうしでしたか。 三石:手応えはですね。お当番の回(樹璃が主役の回)は、かなりいい手応えでしたね。 あの時は、彼女を理解できたような気がしたし樹璃は普段、押さえた芝居が多かった分だけ、出るときにぶわーっとエネルギーが出るんだなあって思いました(笑)。 ● 久川綾(薫幹) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 久川:長いようで短かったなっていうのが正直な気持ちです。 TVの前で見ている方々が、作り手側の作戦に乗せられて、手のひらでコロコロコロコロと転がされていたと思うんですけど、 演じている私も最後まで結末が分からなかったので、やっぱり、作り手側に転がされましたね。 ――何か印象に残ったことはありましたか。 久川:笑いのとり方が非常に独特でおもしろかったのが印象的でしたね。 七実ちゃんの回が必ずお笑いの話だったでしょ。あれがおかしくて、毎回毎回笑わせていただきました。 幹に関しては物語の中で、可もなく不可もなく成長できたと思います。 自分としても役柄として確立できたかな、あんまし自信ないけど(笑)。 ――グーでしたよ。 久川:いえ、とんでもない。初めての男の子役のレギュラーだったんで、ドキドキだったんですよ。 終わって……すごくホッとしました(笑)。 これから自分の芸暦書の代表作の欄に幹と書けることがすごく嬉しいです。ありがとうございました。 ● 白鳥由里(桐生七実) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 白鳥:全体を通して、各キャラクターたちが自分の殻をいかに破っていくかというのがテーマだったと思うんですけど。 七実もちゃん成長して、自分を革命できたのではないかと思っているのですが。 ――ユニークなキャラクターでしたが。 白鳥:こういった役をやらせていただいたのは初めてだったので、始まった頃は、私がこのキャラクターのおもしろさを100%生かしきれるかなって思っていたんです。 終わってから振り返ってみると、楽しくやれたし、私なりの七実像というのがつくれたんじゃないかと思います。 ● 矢島晶子(石蕗美蔓) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 矢島:私が出る回は七実様が主役の回で、いつもギャグ話だったので、ホントの『ウテナ』がどういう話だったのか、あんまり分かっていなかったんです。 今日の最終回のアフレコでは、いつもの雰囲気と違うのでちょっとびっくりしました(笑)。 ――石蕗君については。 矢島:とてもいい役でしたし、白鳥さんのお側につけて、しあわせだったなあと(笑)思いました。 今日もちゃんと出番もありましたし、ありがとうございました。 ● 今井由香(篠原若葉) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 今井:ふつうは、ある程度話数が進むと、自分の役柄やストーリーがつかめてくるものじゃないですか。 だけど、この作品では台本を読む度にいつも新鮮な感じがして、後がどういう風になるのか楽しみでした。 自分の役だけじゃなくって、ウテナやアンシーは勿論、生徒会のみんなとか、それに関わっている人たちがどうなるのか気になりました。 若葉に関しては、ずっと楽しく演じられたんですけど、もう少しウテナと一緒に出られたらよかったなって思います。 ――最終回については。 今井:最終回の台本読んだとき、これ(廊下で後から女の子に抱きつかれること)って若葉がウテナにやっていたものだなって思って。 今度はやられる立場になるんだなって、ちょっと複雑な気持ちで演じました。 でも、終わり方がすごく明るい感じで良かったって思いました。 ● 川村万梨阿(影絵少女A子&千唾馬宮) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 川村:第1話と最終回の印象がこんなに違う作品は初めてです。 第1話で少女歌劇風、宝塚風の華麗な感じでいくのかなって思ってたら、こんなにも哲学的なラストを迎えたのでびっくりしました。 でも、哲学的ながらも華麗で少女チックで、最後になんだか美しく希望が見えたので、泣けてしまいました。はい。 ――馬宮も演じられましたが、馬宮については。 川村:馬宮に関しては、アンシーや暁生さんに似ているから、同じ一族なのかなって思っていたんです。 正体がアンシーだったのには「やられた!」って思いました。「私が今までたてていた演技プランはどこへ?」って(笑)。 でも、男の子役って今までは、ほとんどやったことがなかったので、すごく勉強になりましたし、楽しくやらせていただきました。 ――影絵少女に関してはいかがでしたか。 川村:影絵少女は、これはもう私の代表的なキャラクターになるであろう役だと思っています。 影絵少女のシーンって、すごく舞台っぽいじゃないですか。 要求される演技もアニメ風というよりはアングラ風芝居だったので、ノリにのって、こおろぎさとみちゃんと悪巧みしつつ……、悪巧みしすぎて「そこまでやらんでいい」と毎回のように言われてたんですけども(笑)。 このように舞台のテイストをアニメーションに取り入れるというのは、すごく意義のある、おもしろい試みだったと思います。 ホントに毎回毎回、次はどんな台詞、どんなシチュエーションが出るのかなと楽しみでした。 ● こおろぎさとみ(チュチュ&影絵少女B子) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 こおろぎ:不思議な話だったと思います。何だか不思議で、幻想的で一言では語り尽くせない。 でも、そういうことはおいといて、チュチュは全体の話の流れとあまり関係のない世界をもっていたので、楽しくやらせていただきました。 ――影絵少女についてはいかがですか。 こおろぎ:影絵少女は、幻想的なお話の水先案内人みたいで、ちょっと空回りしているような存在で、実はその話数ごとの真髄をついていたというところを、皆さんに見ていただけたらなって思います。 もし、作品の内容がわからなくなったら、影絵少女を見ればいいと、「分からなくなったら影絵を見ろ!」ですね。 それで、影絵を見て余計に分からなくなりましょう(笑)。というような、楽しい世界ですね。 ● 渡辺久美子(影絵少女C子) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 渡辺:途中からの参加で、しかもいきなりC子だったんで、わけ分かんないまま始めて、ずっと分かんなかったんですけど(笑)。 C子は1人で台本2ページ分を一気に喋ったりするんですよ。 しかも、1カット、1カットを違う役をやったりしたんで。 ――C子の1人芝居は、一度に録音してたんですか。 渡辺:最初は音響監督の田中さんが「別撮りにしようか」って親切に言ってくれたんですよ。 それを「いえ、大丈夫ですよ」って言っちゃったんです。 その次からは、別々にやらせてくださいとお願いしても、「だめ」って言われて(笑)。 ――それは大変でしたね。 渡辺:至らないところがあったかもしれませんが、こんな風に何役もできることは無いんで、勉強になりました。 それから、最終回の予告で「絶対運命黙示録」と言えたのが嬉しかったですね。 ずっと使われてきたこの言葉は重みがあるはずなのに、最後にあんな風に軽く「はいはい、絶対運命黙示録」と言ったので、気を悪くした人もいるかもしれませんが。 それは、幾原監督がそうやってくれと言ったことなんで、あたしにゃ、何の責任もないです(笑)。 ● 本多知恵子(薫梢) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 本多:第一印象は「変!」でしたね。 私はセミレギュラーなので数回しか出ていないんです。でも、放映日に家に居るときには観て、結構、ハマるなあって思っていました。 でも、分からない部分があるんですよね。私の梢って役にしても、自分でやっていても分からないことが一杯あるんです。 その分からないところは、人の奥底にある分からない部分じゃないかしらって思うんです。 確かに世の中って分からないことだらけだから、人間の奥底の分からない部分も分からないなりに素直に表現したら、ああいうふうになるんじゃないかと思います。 ――梢を演じるうえで気をつけたことは。 本多:梢のキャラクターをどう考えるかということよりも、梢って役がこの作品全体の中でどんな位置にいるのかっていうのを考えて演じましたね。 ● 西原久美子(高槻枝織) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 西原:枝織ちゃんという役をやらせていただきました。 ホントに不思議な世界で、くーちゃん(渡辺久美子)の言うように、最初は何が何だか分からなかったんですが、分からないなりに、一応、こうなのかなって考えてやらせていただきました。 今日の最終回で、樹璃さんと部活をやっていたじゃないですか。どうなったんでしょうね……。 友情が芽生えたのかしら?違う方面に芽生えたのかな? そのへん、よく分かんないんですけど。 ――謎ですね。 西原:謎ですね。じゃあご想像におまかせしますっていう感じですか? ああっ、ごめんなさい、分かってないんですぅ(笑)。 ――枝織を演じるにあたって、何か気をつけたことはありますか。 西原:私にしては珍しく、シリアスな役どころだったんですね。 アニメでシリアスな芝居をすることが、あまりなかったのですごく勉強になりました。 ● 中川玲(苑田茎子) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 中川:出番の無いときも、ずっと見学させていただいたので、だいたいのあらすじは、理解しているつもりなんですが、やっぱり分からない部分があって、 幾原監督にお聞きしても、「さあ…」とか「僕も知らないなぁ…」っていわれたりしたんですが、自分なりに「ああ、こういうことなのかな?」って、納得しているんです(笑)。 茎子さんは3人組のなかでも、少し冬芽さんとおいしい所があったりとか、ウテナと闘わせていただいたりとか、すごく勉強させていただきました。 ――他に何か印象に残ったことがありましたか。 中川:茎子さんがデュエリストになった21話の、30分喋りっぱなしっていうのはホント初めてで、メチャメチャ緊張しました。 でも、自分がやりたかったこと、やりたかったタイプのお芝居、言いたかったセリフがいっぱい入っていて、気持ちよくやらせていただきましたし、楽しんでやらせていただきました。はい。 ● 高野直子(脇谷愛子) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 高野:私は『ウテナ』のアフレコにきたのが、久しぶりなんですよ。 今日の最終回で久しぶりに来たら、お話が分からなくなってしまっていて、「うーん、この戦いは何?」という感じになってしまいました(笑)。 ――ご自分の役で印象に残ったことは。 高野:3人組の中のどれが自分の役か分からなくことがよくありました(笑)。 黒い髪で、外側くるりんの、ショートカットが愛子ちゃんなんですよね。 いつも3人で行動してたのに、21話で、急に茎子ちゃんを裏切ったみたいな展開がありましたよね。 それで、愛子ちゃんというのは性格が悪いんだなって思いました。 自分の意見を持っていない子なんでしょうか。そういう子はいけませんね(笑)、と思いました。 ● 本井えみ(大瀬優子) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 本井:最初に『ウテナ』に参加した時には、「まあ、なんて華やかなアニメかしら」って思ったんですよ。 その時は3人でアンシーをいじめる役だったので、「あっ、自分の役は上流階級のお嬢様っぽくて、ねちねちと意地悪するのかしら」って思っていたんです。 でも、途中から3人が出るお話がギャグっぽくなって、私達もすっかりギャグ担当になって、象に追っかけられたりして(笑)。 でも、『ウテナ』本編はどんどんシリアスになっていって、人間のイヤな部分を掘り下げていくようになっていって、「わあ、これ、こわいわねえ」と思っていました。 3人組が仲間割れした話とかも、女の子の恐い部分が出ていましたね。 どういうアニメなのか、つかみどころが無いとも思っていたんですけど、今回の最終回はすごい感動的で、アンシーが救われたっていう感じで、良かったと思いました。面白かったです。 ● 鈴木琢磨(鈴木) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 鈴木:僕たちは、七実さんと絡んだ話、シリーズの流れから外れた話のときにでてましたよね。 だから、『ウテナ』を今回の最終回のような作品としては、僕らはとらえていなかったんですよ(笑)。 ……で、印象ですが、まあ、楽しかったです。いつも歌わせていただいて……音程ずれてたんですけど(笑)。 ――歌というと、あの、「カレー、カレー、カレー」というやつですね。三人で練習したりしたんですか。 鈴木:やってるんですよ。スタジオの廊下で練習している時にはうまく合うんですけど、いざマイクの前に立つと、なかなか思うようにいかなくて。 ――カエルもやられていましたよね。 鈴木:今日の分はやりました。 ――今までのカエルは、鈴木さんがやっていたんじゃないんですか。 鈴木:違います(笑)。前のはりつけにされちゃう時(第28話)は、たぶん、吉野君がやっていたのかな。 僕はあの時ニワトリをやっていたんですけど。 ――じゃあ、カエルは今日が初めて。 鈴木:初めてです。難しかったです。チュチュと仲が良かったんですね、カエルって。 ――その前にも出てるんですよ。 鈴木:あっ、そうなんですか。なるほど、なんでチュチュとカエルが涙しているのか分かんなかったんですけど。 そうだったんですね。幾原監督から、もっと擬人化してくれって言われたんで、鳥獣戯画みたいなのかなって思ってやりました。 ● 石塚堅(山田) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 石塚:山田が出てくる回っていうのは、コミカルな時ばっかりなんで、最終回でやっとシリアスな話に参加できて、「あっ、これがウテナの本筋なのかな」っていうのが分かりました。 分かったっていっても、ちょっと分からないところもありましたけれどね。 最後に参加したので嬉しかったなって(笑)。 ――他にシリーズを通じて印象的だったことは。 石塚:そうですね。鈴木、山田、田中の話なんですけど、一人ずつ、どんどん音階が上がっていくようなセリフ回しがあって、それが印象に残りましたね。 ――先程、鈴木さんにもお聞きしたんですが、外で練習したんだけど、本番では上手くいかなかったとか。 石塚:そうですね(笑)。鈴木役の鈴木琢磨さんがリーダー格で、3人で練習を一生懸命やったんですけど、本番ではメロメロ(笑)になっちゃう。 ――他に何か印象的だったことありますか。動物で演じたとか。 石塚:ああー、一応、亀もやらしてもらったんですけど(笑)。 鳴き声が分からなかったんですね。他には野球の審判とか……、男子学生Bとかやらせてもらいました。 ● 吉野裕行(田中) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 吉野:シリーズとしての『ウテナ』という作品がとにかく不思議だったなって……。 普通じゃないところが面白かったですね。 ――自分のお仕事としては。 吉野:3人組の歌が、あまりうまくできなくて……。 でも、見てくれる人が音が外れるのが面白いっていってくれるのなら、それで良かったなって思いますね。 ――山田役以外に何か役はやられましたか。 吉野:僕もやっぱり、その他の生徒の役だとか、カエルとかをちょこっとやらせてもらいました。動物も難しいなって思いました。 『ウテナ』の世界観に合った動物というと変ですけど、そういう部分が難しかったですね。 ● 結城比呂(ディオス) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 結城:参加する前に、アニメ誌などで記事を見させていただいて、反響がものすごくある作品ということは前もって知っていました。 独特の雰囲気のある、監督の世界観といいましょうか、そういうことの上に成り立っている作品だということも聞いてました。 アフレコ現場にきても、やはり非常に難解な奥の深い作品だなって感じましたね。 ――演じたキャラクターについてはどう思いましたか。 結城:ディオスが、暁生の若い頃だということは聞いていたんですが、シチュエーションなどで分からないことがあって、いろんな人に聞いてみたんですが、みなさん「分からない」というのが結論なんです。 僕がディオスに関して抱いた役柄のイメージは、理想像みたいなものでした。 理想像というのは、ウテナたちの……偶像とまではいかないでしょうが、実在した人なんですから。 ただやっぱり、ソフトフォーカスのかかった世界といいますか、曖昧な世界にいる、きれいな、清潔なピュアな感じなんじゃないだろうかって勝手に思って演じさせてもらいました。 ● 小杉十郎太(鳳暁生) ● ――最終回のアフレコを終えて、この1年を振り返ってみていかがですか。 小杉:僕は途中から参加したんですが、ホントに摩訶不思議な番組で、摩訶不思議な役で、どういう風になっていくのかというのも全然分からなかったんです。 実際、今日の最終回でも「おお、こういう風になったわけ」と、やっている僕も全然展開が予想できなくて、そういった意味ではどうなっていくのかが、すごく楽しみでしたね。ええ。 ――最終回の終わり方についてはどう思いましたか。 川上さんは暁生が大人だったからああいうかたちで終わったのではと言っていましたが。 小杉:今日、革命できなかったわけですけど。 鳳学園に暁生はまだいるわけなんで、また、薔薇の花嫁が現れて、またウテナみたいな、この子なら革命できるんじゃないかっていう子が現れたりとかそういうことはあるかもしれませんよね(笑)。 シリーズは終わったんだけど、この先、暁生はどうしていくんだろうっていうことには興味ありますね。 ――暁生についてはどうお考えでしたか。 小杉:摩訶不思議な人ですよね。何を考えているのか良く分からなかったですしね。 最初の頃は本当につかめなかったけれど、まあ、だんだんやっていくうちに、僕なりにつかめてきました。 ――暁生をどういう人物だと考えていらしたんですか。 小杉:まあ、わがままな人ですよね。 (1997年12月2日) スポンサーサイト
|
「青春的な価値観」 榎戸洋司インタビュー
|
- 2008/09/08(Mon) -
|
徳間書店「アニメージュ」 99年05月号より
榎戸:今回の劇場版『少女革命ウテナ』を作る上で根拠になったのは、テーマとかそういうものよりも、幾原邦彦の「映画」に対する考え方だったと思うんだ。
――どういう事ですか。 榎戸:幾原は、どんな映画を作るかという事よりも、「映画」とはどういうものか、という事をかなり考えていたんだなあ、という事で感心した。 ――ん、難しいですね。 榎戸:例えば、音楽に関しては僕は門外漢だけど、フルオーケストラのために一曲の音楽を書くためには、それなりのフォーマットがあると思うんだ。それと同じようにきっと映画でも似たようなフォーマットがあって、幾原はそのフォーマットの事を常に意識していたという事。 ――具体的に「なるほど」と感心した事があったんですか? 榎戸:それを言ってしまうと、ネタバレになってしまうので。「劇場に観に来てください」という感じなんだけど。 ――劇場版のキャラクターについて教えてください。 榎戸:限られた映画の時間の中で語れる事とか、完結させられるキャラクターは限られてるから、当然、主役のウテナ、アンシーにスポットを当てるわけだけど、TVに登場したキャラクターはそれなりに大事にしたいと思った。 ――冬芽の描かれ方が、かなり違うようですね。 榎戸:うん。冬芽はTVシリーズでは描ききれなかった部分があったかもしれない、それが劇場版でようやく描けたかな。 ――冬芽の裏設定みたいなものが登場する? 榎戸:冬芽が昔は西園寺と友達同士だったのに、急に冷たくなったり、妹の七実を道具として扱ったりしていたよね。それについて「なるほど、こんな想いをしていたのなら、しかたないなあ」と納得できるようになっていると思う。 冬芽に関しては、劇場版でこんな解釈をしたというよりも、企画時に冬芽で本来やろうとした事に戻ったという気がするんだよね。もしかしたらTVシリーズ初期の冬芽や、さいとう先生の漫画に出てくる冬芽に近いかもしれない。 ――今回、枝織が活躍する事になったのは? 榎戸:これはもう、監督。幾原が力を入れたのは枝織だね。ある意味では、今回の映画の主役の一人になってしまった。 ――「ブレイク」したってわけですね。 榎戸:僕は、梢を推してたんだけど(笑)。「ま、劇場くらいは監督の好きなようにさせてあげようか」という事で、枝織大活躍になってしまいました。 ――枝織はどういう風に活躍するんですか。 榎戸:枝織はあまり舞台の中では動かないキャラクターだから、一般的な意味での活躍ではないかもしれないね。でも、登場場面の多さとインパクトは1、2を争うんじゃないかな。 ――なるほど。 榎戸:TVシリーズではウテナの最大の敵でありアンチテーゼというのは暁生だったわけだけど、今回の劇場版では、よくよく見てみるとウテナに対する最大の敵というか、アンチテーゼは枝織になっているのかもしれない。 ――ウテナが今回、生い立ちが違うらしいじゃないですか。劇場版では、かつての薔薇の王子様と出逢ったウテナじゃないんですね。 榎戸:あれはTVシリーズで数を重ねていって、ようやく効果が出てくる設定だから。劇場版だったら実在の人物として好きな男性がいて、それを追うという形にした方が分かりやすいだろうな、という配慮からですね。 ――アンシーについては、どうなんですか? 榎戸:アンシーが一番TVシリーズと性格付けというか、見た目の表現が変わってるんじゃないかな。TVシリーズでは、僕らが予想していた以上に「アヤシサ爆発」のキャラクターになってしまった。劇場版では、多分、分かりやすいキャラクターになっているのではないかと思う。 ――彼女ならではの活躍も。 榎戸:もう、行くところまで行っちゃいますって感じかな。それはもう、「是非観て下さい」という事で。 ――「ここだ!」という見所を教えて下さいよ。 榎戸:見所は全編ですから。 ――そんな事を言わずに。 榎戸:マジで。もうオープニングから、エンディングのタイトルまで。ファンの皆様は覚悟してください、という感じです。 ――榎戸さんは『少女革命ウテナ』に関わって5年ぐらいだと思うんですが、どうですか、その歳月を振り返って。 榎戸:我が生涯に悔いなし。 ――具体的には? 榎戸:この作品に人生の重要な日々を費やしたけれど損はなかったな、という手応えはありますね。 ――充実していたんですね。 榎戸:うん。『ウテナ』の事ばかり考えてたからね。 ――脚本の作業を終えて、榎戸さんは何をしているんですか? 榎戸:いや、未だに『少女革命ウテナ』の事ばかり考えてます(笑)。 ――いったい何を。 榎戸:TVシリーズはTVシリーズで完結しているし、今回の劇場版も1本で完結するんだけど、また『ウテナ』を作る事は出来るかもしれないな。 ――というと? 榎戸:何か新しい問題意識にぶつかった時に、それを『少女革命ウテナ』で描くという事を、将来的にはしてもいいかな、と僕は思ってるんだけど。 ――新たな問題意識を持った時に、それをぶつけてもいいぐらいの器になったという事ですね。 榎戸:そうだね。 ――ところで今回のタイトルは『アドゥレセンス黙示録』ですが、榎戸さんにとっての青春とは? 榎戸:僕にとっては、今が青春かもしれないなあ。 ――そうなんですか。 榎戸:青春というのが生やさしいものじゃないという事がわかっていれば、割とみんな、何とか青春と付き合っていけるんじゃないでしょうか。 ――それが榎戸さんの青春観? 榎戸:そう。 ――青春というのは必ず失われるものなの?大人になっても持っていられるものなの? 榎戸:いや、持っていたら、もう青春じゃないでしょうね。 ――なるほど。青春というのは、状態なんですね。 榎戸:より潔い人は、より良い青春を送る事ができると思うね。 ――具体的には? 榎戸:付き合い方がマニュアル化しちゃったら、もう青春じゃないだろうな、と思う。 ――他人の付き合い方と、世の中との接し方ですね。 榎戸:うん。 ――劇場版『少女革命ウテナ』は青春のお話なんですか? 榎戸:青春のお話です。 ――青春とは何かを考えている映画なんですか? 榎戸:むしろ「青春的な価値観」を持って観ないと、何の価値もなくなっちゃう映画かもしれない。 ――はあはあ。 榎戸:「青春的な価値観」というのはあるよね、やっぱり。青春映画というのは「青春的な価値観」で作られるんだろうなと思う。今回の劇場版『少女革命ウテナ』で語ってる「価値」みたいな事も、「そんな事は青臭いよ」と言ってしまえるものだから。 ――なるほど。 榎戸:しかも、それを青臭いという考え方自体も間違いじゃないと思うしね。 ――TVシリーズの『ウテナ』だって青臭いと言われれば、そうだったかもしれない。 榎戸:きっと作ってる我々も青臭いんだろうな、とかって思うよ。この歳まで青臭いと、ちょっと「ざまあみやがれ!」という気もするね。 ――世間の青臭くない人達に対して「ざまあみやがれ!」なんですね。 榎戸:そうそう。そんなに青臭くて「どこが、ビーパパスだ」って感じだけど(笑)。 ――ビーパパスって「大人になろう」って意味ですものね。 榎戸:僕らは、あと10年はこのまま青臭いままいけそうだと思う。 ――わざわざビーパパスって名乗っているのは実は逆説で、自分達の若さを自覚してるって事なんですね。 榎戸:そうだね。 |
「映像アドゥレセンス・スキャンダル体験」 幾原邦彦インタビュー
|
- 2008/09/08(Mon) -
|
徳間書店「アニメージュ」 99年05月号より
――どうですか、監督。劇場版の制作状況は?
幾原:順調に遅れてます。フフフ。 ―― 一言で言うとどんな映画になりそうなんですか? 幾原:「アドゥレセンス・スキャンダル」です! ――何ですか?スキャンダルって。 幾原:「スキャンダル」は「スキャンダル」です。 ――「アドゥレセンス」って「思春期」ですよね。これは、文字通りの意味と捉えちゃってよろしいんですか。 幾原:そうです。 ――「スキャンダル」というのは。 幾原:(ムッとして)スキャンダルだから秘密に決まってるじゃないですか。 ――はぁ……。 幾原:名付けて「映像アドゥレセンス・スキャンダル体験」ですよ。フッフッフッフ。 ――(絶句)…………名付けたんですか……。 幾原:そう、まさに体験です。聞いた事もないような「アドゥレセンスのスキャンダル」を体験できますよ。 ――体験ってなんですか? 幾原:アニメでやるのは、これが初めてですね。 ――いや、ですからそれはどんなものなんですか? 幾原:いやあ、「スキャンダル」としか言いようがないですね。フフフフフ。 ――(またも絶句)……どうして、そんなアニメになっちゃったんですか? 幾原:突き詰めていくと、そうなっていくんですよね。 ――はぁ……。監督にとって「アドゥレセンス」というのはどういったものなんですか。例えば、かつて存在し、今は失われたもの、だとか? 幾原:「眠っているもの」かもしれない。今もあるんだろうけど、眠ってるもの。そして、しまいこんでるもの。 ――それは「輝かしいもの」なの? 幾原:輝かしいものかどうかは分からないけど……。非常に危険なものであったり、凶暴なものであったりはしたかもなぁ、という気はする。 ――みっともなかったり、情けなかったりしないの。 幾原:もちろん、そういうものも混在はしてる。ただまぁ、振り返ると……そう思うという事だけどね。 ――実際に「アドゥレセンス」をしてる時には、そうは思わないですよね。 幾原:そうだね。どちらかと言うと、良いとか悪いとかはないんだろうね。「それ」しかないという感じだろうな、という気がする。 ――確かに。「それ」しかないと思ってる時が、「アドゥレセンス」なのかもしれないですね。今回、サブタイトルに「アドゥレセンス黙示録」と名付けたのは何故なんです? 幾原:語感が良いから。 ―― ……それだけ? 幾原:珍しい感じがするじゃない。こういうタイトルを付けると。 ――おいおい。 幾原:日本語で「思春期黙示録」じゃ、あんまりでしょ。 ――でも、思春期はテーマなんですね。 幾原:そうですね。思春期特有の気分……さっき言った「それ」しかない、と思いこんでいる「気分」を描きたかった。 ――その「気分」って、映画を観る観客とも関係あるんですか。 幾原:登場人物とも、もし、その登場人物に感情移入している観客がいてくれるとしたら、その観客たちに対して投げかけている言葉です。 ――今回、クローズアップされるキャラは誰になるんですか? 幾原:全員だね。冬芽は特にクローズアップされると思うね。冬芽とウテナの関係性は、TVよりは随分 分かりやすくなっているから。まぁ「関係性」という事で言えば、他のキャラも分かりやすいんじゃないかな。 ――ポスターを拝見すると、配役の中に枝織が入っていますよね。メインキャラクターなんですか? 幾原:そうですね。今回はかなり、彼女は頑張ってます。ハハハハハハハ。 ――TVの時から、監督は枝織にご執心だったようですが。 幾原:そうですね、好きですね。好きなキャラですね。 ――それは、どこら辺が? 幾原:面白いから。 ――例えば? 幾原:自意識過剰なところが好きですね。 ――主に、28、29話ぐらい? 幾原:面白かったねぇ。やっぱり、声と性格、全て良いねえ。 ――声も良かったんですね。 幾原:声も良かったねぇ。「ナイス!」って感じだよね。 ――ボンネットに頭突っ込んでおいて怪我をしてるだろうに、手で顔をおさえながら笑ってるあたりも良いですよね。 幾原:ああ。良いですねぇ。フフフフフフ。 ――今回、枝織はどんな風に活躍するんですか?やっぱり、樹璃と関係するんですか。 幾原:そうだね。もちろん樹璃とも絡むんですけど、それ以外にも冬芽と「イイ感じ(イントネーション上がる↑)」になりますね。フフフフフ。 ――「イイ感じ」と来ましたか。 幾原:「イイ感じ(イントネーション上がる↑)」と行きました。フフフフフ。 ――じゃあ、枝織ファンはお楽しみにって感じですね。 幾原:そんな人がいるかどうか知らないけどね。 ――枝織が好きだっていう人は通ですからね。 幾原:ああ、そうかもね。 ――劇場版のウテナは、子供の頃に王子様に出会ってないんですよね。 幾原:そうですね。ウテナと冬芽は幼馴染みです。 ――アンシーの性格は明るくなると聞きましたが。 幾原:まあ、なってるんじゃないですか。 ――そういう風に設定が違うのは、何故なんですか。 幾原:う~ん、話を分かりやすくするためかな。今回は話が分かりやすいですよ。そういう意味では、シンプルだし。 ――スキャンダルについてもう少し教えてください。 幾原:映画の存在そのものもスキャンダルだし、登場人物たちが次々とスキャンダルな事になります。 ――いろいろなスキャンダラスな事象が描かれますか。 幾原:ええ。「あんな事」も「こんな事」もありますので。 ――具体的な事というのは、言えないんですか。 幾原:言えないけど、「エーッ! そんな事までやっちゃうの」という事はやりますので。フフフフフフ。 ――大人っぽい事? 幾原:秘密です。何せ「映像アドゥレセンス・スキャンダル体験」ですから。観ている人が「体験」できるように作ってます。「この、今、自分の映像を観ていて感じる、この気持ちはなんだろう?」。それが「体験」ですから。多分、そういう意味では感じた事のないものを感じると思います。かつてない作品です。 ――監督、テンション高いですねえ。今、気持ちは「ハイ」なんですか? 幾原:いえ、普通です。フフフフフ。 ――スキャンダラスな内容に関して、映画会社とかから怒られたりしません? 幾原:バレたら、怒られますよ。そんなの秘密に決まってるじゃないですか。 ――なるほど。 幾原:ここだけの話ですよ。フフフ。 ――アニメージュの読者にだけ話してくれているんですね。 幾原:そういう事です。スキャンダル体験だなんて言えませんよ。映画会社の人には秘密です。 ――「アドゥレセンス」と「スキャンダラス」は2大テーマなんですね。 幾原:そうですね。「アドゥレセンス・スキャンダル」という言葉を僕は発見したって事です。 ――どこで発見したんです? 幾原:この映画の作業の中で。 ――「これだ!」と思ったわけですね。 幾原:そうです。参加してもらうスタッフに「この映画、どういう映画なんですか?」と訊かれた時に「アドゥレセンス・スキャンダルです!」と言うと、すぐに分かってもらえますからね。 ――(またまた絶句)……なんだか、煙に巻かれたような気持ちですね。劇場版は見どころ一杯なんですね? 幾原:大サービスしてるって事ですよ。 ――TVシリーズも盛り沢山でしたが。 幾原:あんなものは序の口ですよ。今回は「スキャンダル」ですから。 ――なるほど、楽しみですね。 幾原:まあ、かつてない「スキャンダル」を楽しみにしてください。フフフフフ。 |
「革命するシステム」 長谷川眞也インタビュー
|
- 2008/09/08(Mon) -
|
徳間書店「アニメージュ」 99年03月号より
――作画作業が一段落したところで、今のお気持ちは如何ですか?
長谷川:早く一観客として、劇場版を観てみたいですね。自分のパートの作業に集中して、他のパートを観ていないので、全部フィルムが繋がったのが想像つかないんですよ。 ――今回、作画監督に関して、パートごとに分業することになったのは、どうしてなんですか? 長谷川:もう、一人でやるのは不可能だなって思ったんですよ。他のアニメもそうですけど、ディテール勝負というか、画の密度がかなりのものになってきている。劇場版の大変な分量を、一人で作監するのは非常に難しい。スケジュールの問題もありますしね。 それから、一人でまとめる事に、最近こだわらなくなったというか……。集団でやる作業だから、自分がどんなに頑張って原画を描き直して、全部自分の画にしても、それを動画マンが動画にするわけだし、マシントレスされるわけだし、どこかで自分の画じゃなくなるのも分かり切っていますから。むしろ、自分のテイストが他の人に伝わって、自分のテイストを元に全編ができればいいかなって。 ――自分が直接、全部のカットに手を入れる事にはこだわらない? 長谷川:うん。 ――一方に、一番上に総作監をおいて、作監、作監補と何重にも作監をたてて、何とか総作監が全体に手が入れられるようにするシステムもありますよね。 長谷川:むしろ、それが主流でしょう。最近の劇場アニメなら、一人で作監を全部やっている作品の方が少ないと思いますよ。必ず作監補がいたり、複数で作監をやっていたり、それだけ絵のクオリティや密度が上がったからでしょうね。それに対して、新しい作監のシステムみたいなものが出来てもいいのかなって思うんですよ。ディズニーみたいに、一キャラを1人の作監が担当するシステムもあると思うんですけど、そうではない、日本的な分担作業が出来ないかなって。 ――今回の『アドゥレセンス黙示録』は、TVシリーズの集大成的な意味もあるわけじゃないですか。 長谷川:そうですね。 ――それだけにTV版のスタッフに、それぞれの仕事の総決算をしてもらいたい気持ちもあったわけですよね。 長谷川:勿論です。俺は最初はプロット打ち合わせの時に、オムニバスにしたいって強く押し出したんですよ。その頃からパートごとに、分担して作監をやりたいという意識が強くて。お話はオムニバスではなくなったんですけど、そのシステムは残ったんです。TVで印象に残る仕事をした人が、劇場版で似たシーンを担当しているから、的確な効果になったと思うんですけどね。 ――林さんが樹璃をやってとか、そういう事ですね。たけうちさんは? 長谷川:たけうちさんは、ねっとりとした芝居がうまいんで、劇場版でもそういうシーンが多いパートをお願いしてますね。 ――作画監督ではなくて、原画の方はどうですか。 長谷川:今回の劇場版は、ホントにいい原画の人に集まってもらいました。アニメは原画ですよ。 ――それを再確認しましたか? 長谷川:そうですね。アニメは原画次第で如何様にもなるっていう。 ――TVの『ウテナ』は作画監督の力が大きかったんじゃないですか? 長谷川:でもやっぱり、基本は原画ありきですよ。作監の力は、つまり、ディテールの力ですよね。画のディテールを上げて、どれだけゴージャスに仕上げるかが作監の仕事ですね。動かすのはやっぱり、原画の人ですから。 ――その辺りに関して、今回の劇場版ではどういう具合に。 長谷川:各作画監督が画のゴージャスさを競いつつ、劇場番版らしいクオリティを維持するために、実力のある原画マンに集まってもらいました。そういう意味では、TVの『ウテナ』で学んだシステムを使っています。 ――学んだシステムというのは? 長谷川:設定やレイアウトでベーシックなラインを決めて、あとは各スタッフごとに競合して、トータルのクオリティ上げをしてもらうという形ですね。 ―― 一人の個性でまとめるよりも、各スタッフの個性と力が出てる方がいいという事ですね。 長谷川:昔から、作監とかが他の人の画を押さえ込んじゃうと、勢いみたいなものが半減するんじゃないかという危惧があるんです。力が出せる人には出させてあげたいし、自分を越えていって欲しいと思いますけどね。まあ、そこで越えられてたまるかって、自分も頑張るんですけどね。 ――なるほど。 長谷川:そのくらいの方が、危機感も維持できると思うんです。今回の劇場版も、よい緊張感を維持できたと思います。 ――設定やレイアウトでベーシックなラインを決めるという事について、もう少しお願いします。 長谷川:そこに別のシステムの可能性があるかなって思うんです。作監が画を直す事でまとめるんじゃなくて、設定とかデザインで作品をまとめるということですね。最近のアニメの設定って、クオリティが高いじゃないですか。設定の段階で「世界観」を作ってる。その設定が持っている「世界観」で、作品をまとめられたらなって思います。そういうことが可能じゃないかなって。 ――絵そのものじゃなくて、絵が持っている世界観ですか。つまり、設定を描いた人のテイストみたいなものを、作品全体に浸透させるという事ですか。 長谷川:そうですね。それが作監システムを変えられる方向かな。少ない画でガンガン動かすのなら、一人で作監出来るかもしれないですが、今の日本のアニメの密度でいくなら、もう、デザインでカテゴライズする方向しかないかな。 ――『アドゥレセンス黙示録』の美術は、長谷川さんから観るといかがです。 長谷川:今回、小林さんの力はすごく大きいですよ。小林さんの提示してくるラフ設定とか、美術ボードに触発されて、僕らが描くレイアウトが広がっていきました。本当に小林さんのビジュアルに負うところが大きいんですよ。小林さんのデザインセンスと、美術補佐の中村(千恵子)さんによる、ディテール上げの力ですね。 ――最後に『アドゥレセンス黙示録』に関して、もう一言お願いします。 長谷川:自分自身の仕事としても、システムに関しても、TV版からの集大成みたいに出来たと思います。これを生かして、次の作品で上のステップへ行きたいですね。 |
「革命の君主」 幾原邦彦インタビュー
|
- 2008/07/29(Tue) -
|
幾原邦彦(監督) インタビュー
ソニー・マガジンズ 「薔薇の全貌」 袋とじインタビューより
――企画から放送終了まで丸4年、『ウテナ』は幾原さんを主導に動いているわけですよね。
幾原:そうだね。 ――テレビ版ではやりたいことはやり切ったという感じですか。 幾原:うーん、7割ぐらいは…。いつもこんなものだけどね。 ――ご自身のプロジェクトを終えた感動なんかはなかったんですか? 幾原:別に(笑)。「長い仕事を終えたなー」とか。 まぁ、仕事のいっかんなのでね、まわりがイリュージョンで思っている程完全燃焼なんてないですよ。大リーグボールを投げた星 飛雄馬がパキッていっちゃったような。スゴイ何かなんてないです。あしたのジョーにもなってない。もう、フツウ(笑)。 ――では、真っ先に思い出せる苦労点などは? 幾原:完全オリジナル作品ということで、コマーシャルをやらなきゃいけない義務があったんで。そういうところが作業的にしんどかったなぁ、と…。通常だとスポンサーがついていて、宣伝してくれる。著名な原作物であれば、勝手にパブリシティが動くもんだし。 今回は、そういうのが全然なかったんで…。自分で何とかしていかないと、どんどんマイナーなものになってっちゃうから。だから、まず作品を意図的にコマーシャルっぽいものにしていかないといけなかった。 ――その要素は、作品のどのあたりに映し出されているのですか? 幾原:全体的に。とにかく、パッと見で解りやすく作ろうと。キャラも音楽もポピュラーな感じに。まぁ、マニアックにはいくらでもやれるからね。その方がラクだし。 そこが(作品をポピュラーなものとしてプレゼンテーションするということが)自分の義務になっちゃったのがしんどかった。『ウテナ』以前の仕事の進め方って、その逆で、自分が率先して暴走してたから(笑)。 ――幾原さんが辺りに目を光らせて、軌道修正をしていかなければいけなかった? 幾原:そう、まわりが思っている程好き勝手にはやってないよ。 ――ここまでやりたいのにブレーキをかけなきゃいけない、というのは作り手として辛いですね。 幾原:だから、先程の言ったことに繋がるんだよ。やりたいことがやれたのは7割ぐらいとゆーやつに。 ――『ウテナ』の素材である絵や音楽を決定し、集めたのは幾原さんなんですか? 幾原:まぁ、そうだね。とにかく元が無い作品だからさ、何かと連動しているわけでもないし。だからどうすればいいのかって考えて。で、思いついたのが目立つ異物感っていうやつなんだよね。J.A.シーザーのような特殊な音楽と、さいとうちほのような完全ポピュラリティのある王道少女まんがをぶつけてみる。 そういう異物感を意図的に作り、コマーシャルのネタにした。だから、個人的な趣味でお願いしたという部分もあるし、計算していたっていう部分もある。 ――『ウテナ』はカルトなアニメだと言われていますが、本質はそうではないんですね。 幾原:観た人がどう思うかは勝手だから。そうだなぁ、こういう題材で、こういう様なストーリーをやったら、世間がそう言うのは間違いないと思っていたから。普通の人が引っ掛かるとまではいかなくても、パっと観たときにマイナーな作品に見えない様には気をつけていたな。 ――不条理と言われるその奥は、実は一般を巻き込むことも考えていたんですね。 幾原:もともと、そういうのが好きなんですよ。コマーシャルっぽい活動そのものが…。自分で言うのも何だけど、他のディレクターさんって、わりとこういう考え嫌うでしょ。たしかにコマーシャルはしんどい作業ではあるけれど、その反面、自分はこういう(コマーシャル的な作品)のって案外抵抗なくやれる。逆に全く「コマーシャルやらないでいい」って言われたら不安になるね。 「そんなマイナーなもの作っちゃっていいのかな」って。 ――そこを考慮していながらも、監督色が強く押し出されている作品だと思うのですが。やはり登場人物やストーリー全体に、ご自身が反映されていたりするんですか? 幾原:キャラは全員、どっか断片的に自分です。じゃないとやれないよ。設定なんかも自分とかぶってないと作れない。ある部分を肥大化、拡大化、誇張させてストーリーにしてる。だからどっかしら自分が入っちゃってるよ。 でもまんがだからこれは。見せ物だからね。ウソで作っている部分も相当あるから。理想とかそういうものがごっちゃに入っているから。自分そのものではないよ。最初から最後までそんな感じだよ。 ――物語の最後はハッピーエンドだったのでしょうか? 幾原:うん。アンシーがウテナを追っかけていくということが、そうなんじゃないの。外に出る…てことを描きたかったから。 ――それはキャラに重ねる断片的な自分なんですか? 幾原:うーん、きっとそうなんじゃないの。なんだかんだ言っても、僕自身まだオコチャマ(お子様)だから。 |
ビーパパスの贈答品の酒をいただく係 長谷川眞也インタビュー
|
- 2008/06/09(Mon) -
|
長谷川眞也(キャラクターデザイン) インタビュー
ソニー・マガジンズ 「薔薇の全貌」 袋とじインタビューより ――長谷川さんがアニメーターになろうと思ったきっかけは何ですか? 長谷川:アニメーター稼業は今年で10年目になりますが、実は最初っからアニメーターを目指してたわけじゃないんです。もちろん東京デザイナー学院のアニメ科に入って勉強してた頃はアニメーター志望だったけど、その前の学生時代はそうじゃなかった。 アニメも、まあ小さい頃は人並みに観ていた程度で。中学に入ったらもう水泳の部活一筋でした。学生時代は主に、部活やバイトなど課外授業で忙しかったです。 ――じゃあその頃から絵をずっと描いてた、というわけじゃないんですか。 長谷川:いや、絵は描いてました。いろんな模写もしたし、マンガっぽい絵ですけどね。中学の時はアニメから離れてたけど、高校に入ってからまたアニメを観はじめたんです。そのぐらいから「あ、仕事として絵を描きたいな」と思いはじめました。 ――それはもう、アニメーションの世界に照準にあったと。 長谷川:そうですね。友達にそういう絵の業界にすごい詳しいヤツがいたんですよ。いまテレビで放送されてるアニメ作品をやりたきゃナントカ専門学校に入るといいぞとか、横つながりでいろんな情報をもらったんです。乱暴な言い方をすると絵を描く仕事をしたいと思った時に、別に絵の素地をすごく勉強していたわけでもなくて、当時は落書きみたいな絵しか描いてなかったから、それを仕事にしようと思えばアニメ系に落ちついちゃったんです。 ――やはり絵を描くことがお好きだったんですね。 長谷川:うん。それと絵を描くことに飽きなかったというのがある。 さっきも言ったけど、中学の時は部活や勉強にけっこう熱中してたんです。で、高校に入ったらなんて気が抜けちゃって。僕の高校が割と勉強熱心な進学校だったんですね。やっと合格したんだから、勉強はもうしなくていいじゃんみたいな(笑)。 そこでみんなとは違う、勉強やスポーツ以外に熱中できる何かがないかと探してたんです。で、8ミリ映画を撮ったり無線の資格を取得したり、望遠鏡を買って山へ星を見に行ったり・・・高校を出て少し無職の期間があって、その時は公務員試験を受けてみたり。いろんなことをやってはみたけど、その中で飽きずに残った選択肢が絵を描くことだった。だからアニメをやらなきゃ生きていけない!みたいな追い詰められたところからアニメーターを目指したわけではないんです。 ――なるほど。そうやって絵を描いてこらてたわけですが、昔から『ウテナ』みたいなタッチの絵だったんですか? 長谷川:昔の友だちに『お前を絵は、全然変わってない』と言われます。自分ではわかんないんですけどね。でも自覚できるといろいろ描き分けもできるからいいとは思う。 残念ながら、それができるほど全力で絵の勉強にのめりこんでいた時期はあまりなかったんですけどね。 ――女の子の体のラインを美しく描く長谷川さんですが、やはり昔もこの路線だったんですか。 長谷川:いやいや。男が女の子の絵を描こうものなら笑われるって云うか気恥ずかしい時期ってあるじゃないですか(笑)。だからアニメーターをちゃんと目指す時期になるまでは、きちんとした女の子の絵を描きませんでしたね。あ、でも家でこっそり落書きしていましたけど。 ――今では「現在の男性アニメーターの中で最も少女マンガの絵を描ける」と言われてますよね。 長谷川:うーん、自分ではよくわからないけど・・・どうだろう。やっぱり少女マンガのキャラをずっと描いてたから慣れてるんだとは思う。10年間アニメーターやってて、そのうち8年間は少女マンガのキャラを担当してるから。単純計算で『セーラームーン』を5年、『ウテナ』を3年ですからね。それ以外は『ゲッターロボ』 『エヴァンゲリオン』ぐらいしかちゃんとかかわってないし。いまはすっかり少女マンガ専門のアニメーターのイメージがありますね。 ――『ウテナ』で完全に長谷川さんのカラーが確立されたように見受けられますが、ご自身ではどのように思われていますか? 長谷川:うーん・・・けっこう自分の型が決まってしまうのに、抗ったりもしたんですが。アニメーターは本来はまんがが原作であれメカであれ、好き嫌いなくあらゆるタイプのキャラクターや動きを描けないといけないんだと。システムの中のアニメと個人的な仕事はそういう意味では矛盾しています。気をつけていてもクセが出てしまうのは仕方ないですねえ。まぁ、最近はアニメ以外の仕事も多いし。 ――アニメーターを目指すうえで、影響を受けた作品はありますか。 長谷川:これはカッコいいなって一時的にハマッたのもあった。だけどいまだに残っているのは何かって言われると、すぐには思い浮かばないなあ。 ――この作品を精神的な糧にアニメーターを続けています、ということはないんですね。 長谷川:そこまで執着している作品ってやっぱり無いなあ。逆に他のアニメーターさんって、そういうのあるの?この作品が人生の師匠です、みたいな。 ――けっこう多いようですよ。学生時代に感銘を受けた作品が創作活動の軸になってるというアニメーターの方は。 長谷川:このヒトの作品は一生越えられません、みたいなものかなぁ。僕の場合、一生懸命思い出せば出てくるかもしれないけど…。そこまで興味を持ってアニメ作品って覚えが無いんですよね。だからって決してアニメが嫌いとかなんじゃないですよ(笑)。 さっきも言ったけど作品数は本当にいっぱい観たし、アニメのために割いた時間も多いしね。いろんなアニメ作家がいると思うんですよ。僕みたくあまり特定の作品にのめりこんでいない人もいるし、逆に影響を受けちゃうから、一切他の作品から情報をシャットアウトしてる人もいる。それとは逆に他の作品からリスペクトして、ラクチンにすごい作品を創れる人もいるし。そういうのって百人百様ですよ。それに特定の作品にめちゃくちゃ入れ込んでいて、『今は作り手やっています』ってやり方だと、その作品からどうしても逃げられないというか、限界を作っちゃうんじゃないかと思うんですね。 僕の場合きっと自分では気づかないけど何かの作品に影響を受けて、いまに至ってるとは思うんですが、それを特別に意識しようとは思わないです。物を創るうえでの枷になるというか・・・。 ――何か創作というものに対してかなりの信念を持っていらっしゃるようですね。制作側に10年居て、長谷川さんから見た他のアニメーターさんの傾向などはどうなんですか。 長谷川:こういう業界だと狭い範囲で「自分の趣向に沿ったもの以外はやりません」という人はやっぱり多いかな。なんかどこかに頑固過ぎると云うか。でも否定の気持ちは無いですね。その筋のプロであればいいんだし。 「●●さんの作品ってスゴいよね、ああいうの作りたいよね」と言い続け、なんとか●●さんフリークの横つながりでそこに行き着く。そうやって業界内でたくましく人脈作ってやってる人もいる。そういうのもその人の信念だし、そのやり方もありだと思う。 ――特定の作家さんや作品が好きだと言っていれば「じゃあ自分と魂は同じだ」みたいなつながりで仕事が回ってきたりすることもありますね。 長谷川:うん。このアニメ業界、やっぱりみんな昔に同じアニメを見て仕事を始めた人が多いし。でもね、僕たちが見てたアニメを作ってきた世代の人たちは、別にアニメを見て仕事を始めた人たちじゃなかった。それこそアニメーションの創成期で、画家やマンガ家を目指してたけど食えなかったり、たまたまそこに配属されて何もわからないままアニメをはじめた人たちが多かったり。でも実際にスゴい作品を創ってきた人たちなわけですよ。 つまり僕たちが憧れているアニメ作家の人たちの原点はアニメじゃないところにある。きっと僕たちの世代が、いくらアニメが好きだったって言っても、原点をたどってゆけばアニメじゃない別の地平に出ていくんじゃないかって思います。だからいまからアニメーターをやりたいような若い人は、アニメだけじゃなく視野を広く持った方が絶対にいいと思います。 アニメの作業ってついつい狭い世界で影響しやすいから。それで仕事的には事足りるから満足しちゃう。僕がそうだったからってわけじゃないけど、いろんな物事を吸収しておいた方が、キャラの絵を描くにしても絶対にいいはずだから。 ――それでは順を追って『ウテナ』の軌跡と長谷川さんの関わりを聞かせていただきたいのですが、いつぐらいからこのプロジェクトが動き始めていたのでしょうか? 長谷川:まだ東映動画で作業してた頃ですから'94年の末頃かな。それこそ『セーラームーン』を手掛けてた頃です。幾原さんももちろん東映です。たまにやってきては「こんな感じの絵描ける?」みたいな感じでとあるまんがを持ってきたり。まだ『ウテナ』のカタチにはなっていなかったけど。 ――具体的な話が正式にきたのは? 長谷川:うーん当時、幾原さんからは内々で新作の話をいろいろ聞かされてたんですよ。実はさいとう先生にターゲットを向けている、とか。すべてが決まり次第東映を抜けるとか。で、やっぱりキャラデザは・・・どうしようかなぁ・・・とか(笑)。 ――幾原さんは、もう新企画のキャラデザをやってもらうのは長谷川さんしかにないと思っていたのではないですか? 長谷川:それは・・・どうだろう(苦笑)。でも幾原さんも東映を辞めて「さあ新企画を動かそう」ってときでもあったし頑張っていたからね。それに僕が東映を抜けた時期と彼の動きがちょうど合ってたから、東映の作画マンの中では僕に声をかけやすかったというのはあったんじゃないでしょうか。僕は当時、それとは別で庵野さんに「手伝わない?うちでやんない?」って誘われていた。で、その年の秋口ぐらいに幾原さんが独立して例の企画を進めるということを正式に聞いたんです。だから偶然だけど翌年からは、同時に2本の作品を手伝うことになったんです。 ――ほぼ同時進行だったんですか。 長谷川:そう。次の年の'95年の4月には『エヴァ』の作画に入ったんですけど、5月にはさいとうさんに会ってた。夏にはこのビーパパスの事務所を探していて、その頃には『ウテナ』のスタッフ集めを本格的にやってました。しんどかったですよ。元旦に打ち合わせをやってたしね。幾原・さいとう・榎戸・僕で合宿をしようと言われたけど、僕だけ欠席しました(笑)。 自分のイメージがないままの打ち合わせが、めっぽう不本意に思えたので、当時は元旦からずーっとスタジオにこもって、キャラを煮詰めていましたね。 ――ウワサでは、さいとう先生のキャラをアニメ用にリライトするのは大変だったとか。 長谷川:えぇ、放送の数ヶ月前の年末まで、ずーっとキャラデザ作業でしたから。何回描いてもダメ出しの連続で。最初のうちの、作画の打ち合わせはすべてラフのキャラデザで行ってましたよ。なかなか決め込めなくて、なんだかんだで1年ぐらいキャラを創るのに費やしました。JCスタッフに制作を依頼しようと決めたのはわりと早かったんですが・・・。 幾原さんも東映の仕事を春まで引きずっていたし、作業はなかなかうまく進まなかったです。だからみんな、ちゃんと集まれることも少なくて。ビーパパスも最初はフロアに机が4基だけポツンとあったきりだったんです。まあ座るモノぐらいは買っとこう、だけど他には何にもなかった。それで僕はずーっとそこで作業して寝る日々の連続。そんな生活・・・うーん最悪だったなあ(笑)。 ――それでは最終的に、キャラデザ作業はどのあたりでまとまったのですか。 長谷川:まず別作品を同時に描いてたから、その線を自分で消していく作業が大変でした。あとキャラデザの仕事だけを長い期間やってると、逃げ場がなくなっちゃうんですね。だから同時進行の時期は大変だけど、ある意味ありがたかったところもあったりして・・・。どちらかが煮詰まっても、片方に作業転換できる心の余裕がありましたからね。 『セーラームーン』を降りたくなったのもそれなんですよ。5年近く同じ作品をやってると、物を創る上での逃げ場がなくなる。また、そこでしか評価されない辛さもあったし・・・。仕事の上で身動きできる余裕って必要だと思うんですよ。でも『ウテナ』で、最終的に全然逃げ場がなくなった。とにかくキャラクターはこの作品で最重要課題だったし、それがないと先に進めない切迫感もあった。作業に集中するしかなかったんだけど、産まれるまではしんどかったですね。 ――キャラを生み出す作業に、誰かのフォローは無かったんですか。 長谷川:はじめは幾原さんとのキャッチボールでした。自分で描いてる時はベストだと思ってるから、堂々とキャラを提出しますよね。でも「うーん、ちょっと違う」ってダメ出しが何度も何度もあって・・・。さっきも言ったけど最初は『エヴァ』に似てるって、繰り返し言われた。自分では熱くなってるからよくわからなかったけど、冷静になると確かにそう見える。だからまず別作品のタッチを払拭する作業があって、その次はさいとうさんの絵に近づける作業の連続。 すると今度は「お前、コレさいとうさんの絵に似過ぎだよ」ってダメ出しされて、じゃ、どうすりゃいいのよって(笑)。長谷川の個性を出せって言われたけど、それはさっきやったけどダメだったじゃん! みたいな争いはしょっちゅうでした。それでどんどん追い込まれていったなぁ。それからはどこで区切りをつけて決定稿とするか、自分の中でのせめぎあいみたいな感じでした。 ――何かによりかかることも無く保証もなく、アニメーションを立ち上げることに不安はなかったですか? 長谷川:不安がなかったといえば嘘になる。当然、最初に生活の最低限保証としていくらか貰っていたけど、作業が具体化するまで基本的には無収入だったし。でもキャラを作るのに必死だったから、生活のことは気にならなかった。実際にまったく家に帰らずスタジオにこもってましたから。それと、自分自身をそこまで追い詰めるとどうなるんだろう、神風が吹くかもしれないって子供じみた期待がどこかにあった気がする(笑)。 正直最初は、そういうギリギリのところで何かが生まれるという、ある種の破壊的な発想に憧れてはいたけど、実際はそうじゃないことを思い知った。やっぱりその時の作り手の辛い部分がにじみ出ちゃうものでね。芸術家ならそれを個性にしている部分もあるし、だからこそ名作が完成するんだという考えもある。でもアニメは娯楽だからそれじゃダメだと思うんですよ。 だから逃げ場のない時期に描いたキャラの表情が結果的にユーザーに対してハッピーな顔をしてないな、と。そう思った時期は精神的にはかなりキツかった。 ――それはずっと? 長谷川:オンエアの最初の時期はずっとそう思ってました。描かなきゃ生きていけない、そんな感情で描いたキャラはやっぱ楽しそうじゃないんですよ。かと言って楽しく描けって言われても、それは技術の問題じゃないから難しいんですよ。 ――放送時はどんな生活をされてたんでしょうか。 長谷川:もう、延々スタジオにいました。あんまり楽しい話じゃないですよ。精神的にスレスレの生活だった。確かに絵がないと始まらない作業だから、しっかりやんなくちゃとは思ってたけど、どこか人間としてのリミッターが働いてしまう。おかげでいろんなお酒の銘柄を覚えました(笑)。外へ独りで飲みに行ったり、僕が眠るときに周りが作業してる場合とかは、気になるから強制的に酔っぱらって寝ちゃったり・・・。放映が終わるまで丸2年ぐらいそんな生活だった。やがてどの境地に行き着くかというと・・・坊さん(笑)。 放送の後半はみんなに修行僧って呼ばれてました。なんか主張が削ぎ落とされていって、最後の方は持てる欲望はお酒だけになりましたね。 ――凄まじいですね。何がそこまでさせたんでしょうか。やはり自分だけじゃなく、他の人たちが関わってるというところでしょうか? 長谷川:人のためにやってる、という思いはありませんでした。何度も言うけど、僕には逃げ場がなかったから。仕事をする上での保障の問題も含めてですけどね。僕はずっと基本的にフリーのアニメーターなんですよ。『~セーラームーン』から次へ次へ、仕事のステップ変えることが出来たのも、やっぱりひとつひとつの仕事でそれなりに実績を残せたからだと思う。だから『ウテナ』で結果を出さないと次へつながらない、という崖っぷちの恐怖感をずっと持っていたから。だからあの辛い作業を耐え抜いたんだと思う。 フリーランスの仕事の基本は常にその場の実績がすべてですからね。クールにその仕事だけでサヨナラって場合も多いですし。だから多少の追い込みは必要です。でも・・・ちょっと追い込み過ぎた感も有りですね(笑)。 ――『ウテナ』のテレビシリーズが動いていた2年間、作品やキャラに対してどのように思い入れや視点は変わっていったんでしょうか。 長谷川:作品に関して言えば、最初に決めたのからあまり変わってないですよ。あと僕個人としては作品を作る過程で、どこでどう動いたらどこがこうなるんだ、という制作上の俯瞰的視点は勉強できました。版権物がユーザーに受け入れられる流れとかね。 絵だけ描いてると、そういうのって解らないんですよね。「絵だけ上手くなればそれでいい」みたいな・・・。だけど『ウテナ』の作業では、絵の提示の仕方など絵画技術だけではない、キャラクターデザイナーとして作品づくりの進め方を学ばせてもらいました。絵で言えば、ちょっと後半ふっきれた感はあります。前半は少女マンガを意識し過ぎちゃってガチガチだったけど、最後の方ではいわゆるハレンチなタッチになっていった(笑)。自分でもそういうことができるゆとりが出てきたんだなと感じました。その方が結果がよかったしね。幸か不幸か作品的にもそれでOKみたいな展開にもなった。 だから夏以降は気分的に楽でしたよ。版権物のポスターでも、ちょっとキャラの肩を出して描いてみたりとか。その方が格段にかっこよくなった。 やっぱり描く上で余裕は大事です。カット発注でも設定やポーズや小物まで指示された発注はよくあるんですが、少し余裕のある設定をもらった方が後からもいいと思える出来です。まあクライアントの提示した発注を確実にあげないとプロとは言えないんですけどね。 ――最近のお仕事は余裕を持って作業されてますか。 長谷川:はい。・・・そうしようと努めてます(笑)。 絵描きって、つまるところ手先だけの狭い視点で仕事してるじゃないですか。だからどうしても作業中は視野の幅が狭くなっちゃう。なので意識してないと本当にドツボにはまることが多い。だから自分の仕事にクールに距離を置いてってわけじゃないんですけど、そういう精神的な幅は大事にしたいですね。またそれは、長く続けるための秘訣だと思う。 例えば「もうこれで俺はダメだ」と思って突然郷里に帰っちゃう人もいるけど、大半はそのダメってのは人が決めたことじゃなくて自分でそう思いこんじゃってる場合が多い。仕事を続けていくには、何か失敗してもそのダメージに足をとられずに、次のステップに移行できる気分の余裕を見いだせることが必要だと思う。「これがダメでもこっちがあるよ」という選択肢をたくさん持っていた方がいい。 かといって「ダメでもいいよ」ということではなく、ひとつの仕事はきちんと責任を持ってやる。僕もこれからひとつのものにのめり込むことなく、いろんなタイプの仕事を大切にやりたい。その方が気持ちも楽だし、結果も出せますからね。 意外とね、そういう幅のあるリラックスした状態で描くと自分の予想を越えた出来のものがあがる時がある。だから自分の引き出しを常にいろんな方向に空けておきたいですね。 ――長谷川さん自身、余裕を作るための具体的な対策は? 長谷川:映画をけっこう観ていました。作業中、煮詰まると独りになりたい気持ちが強かったんです。美術館とか、スタジオじゃないどこかの別の場所へ行ったりとか。 ――このプロジェクトの発端者であり、同志の幾原監督からは励ましの言葉などはあったんですか? 長谷川:(苦笑) ネコニャンニャンとかそんなことばっかり言ってたなぁ。いや、励ましてくれた覚えってあまりないですよ。自分が「くそっ、死にたい」とかそんなことばっかりボヤいてましたから。言葉はあんまり残ってないけど・・・まぁこっちが追い込まれた分、広い心でいてくれたから・・・。助かったなとは思います。 自分でも制御のきかない、少し突っ走った絵を描いた時期があったりしたけど、それをとやかく言わないでくれましたね。後でチクッと、ダメを出されたこともありますが・・・。今から思うと相当子供じみたリビドーにまかせた仕事をしてたな、と思う事もあります。みんなそれに全然黙ってたわけじゃないんですけど、こちらの作業のテンションを折っちゃうようなことはなかたです。 あとね、スタジオにずっとこもってると、大してドラマチックなことなんてないんですよ。自分が追い詰められた時、誰かに肩をポンと叩かれて励ましの言葉に後光が差していた・・・みたいな。全然なかったですよ(笑)。でも自分自身、作業は苦しいままだったけどだいぶ気分的にはふっきれたところがありましたからね。ちゃんとした励ましがなくても何とかうまくやれたと思っています。 ――いつの間にか精神的な余裕が生まれたんですね。縛られていない分スタッフへの絵の提示の仕方もだいぶ変わったんじゃないですか? 長谷川:どうかな!?あまり変わってないとは思っているんですけど。やってる時はプロである以上、どんな時でもその時にベストなものを描くものだ!描いていいんだ!とは言いますけど。先程も言ったように、その方がいいものが描ける。途中の僕の絵なんて「キャラのアゴがとんがってきたな」「鼻が高い」「目が大きい」とかみんな心の中では思ってたらしいけど、描いてる方はそう思ってなくて・・・。その辺、みんなわかっているんだけど、その時はあえてつっこまなかった。ありがとうと言いたいです(笑)。もし作業中に言われてたら絶対、ヘコんで手が止まってましたからね。 ――テレビ版『ウテナ』がひと段落したときの心境は覚えていますか。 長谷川:いままでしゃべったようなことを、気づいたかなと。あとは終わってみて、仕事をする上での自分の状態っていうものを冷静に観察できるようになった。まさに悟りを開いたってヤツですかね(笑)。ますますイメージが坊さんに近づいてしまいました。あ、でもすぐに劇場版の話が来たんですけどね。まぁ、具体化するまでに1年近くあったから、他の仕事を手伝ったり・・・。 あとはインドに行ったり、パソコンいじったり。引き出しがカラになってたから、少しでもモノを溜めておこうと・・・と言っても、劇場版でまた引き出しがカラになるんでしょうけどね。 (1999年4月14日 ビーパパスにて) |
ビーパパスの自分がいちばん次男役 榎戸洋司インタビュー
|
- 2008/05/11(Sun) -
|
榎戸洋司(シリーズ構成) インタビュー
ソニー・マガジンズ 「薔薇の全貌」 袋とじインタビューより ――子供時代のことをお聞きします。ご自身はどんな子供だったと思われますか。 榎戸:普通の子供でしたね。辺境の学校に通いながら将来はジェダイの騎士になることを夢見ていました(笑)。 ――このアニメキャラにハマッたというのはありましたか? 榎戸:ないですね。もちろん好きなキャラクターとかはいましたけれど、いわゆる、ハマる、というのはどうやらそれとは違うということに最近になって気づきました。アイドルとかスポーツ選手も含めて、特定のキャラにハマったことはないようです。情緒的になにか欠落しているのだろうか(笑)。 ――では好きなキャラクターは?幾原さんは松本零士のキャラだとおっしゃっていますが。 榎戸:うそっぽいなあ。いや、松本零士さんのキャラは好きですが。ただ『ハーロック』とか、当時はまだその魅力の本質には気づいてなかったな。 宇宙海賊という生き様を表現するために、マゾーンとか地球のブタとか言ったものが何を指しているのかは深く考えなかった。 こういう仕事をするようになってから、そうしたキャラクターは何かの置き換え、いわゆる「見立て」だと気づきました。そういうのは作品設定をつくる上での参考になりました。当時は「アルカディア号がかっこいい」とか思って見てただけだった。いや、そういう見方の方が正しいのかもしれないけど。 ――感銘を受けたアニメ作品、シーンなどは? 榎戸:うーん、ディズニー映画の『不思議の国のアリス』とかかな。小学生のころ、何かの上映会で観たんです。たとえばその中で、アリスが道に迷って「私はどこへ行けばいいのかしら」ってチェシャ猫に問いかけるシーン。「それは君がどこへ行きたいかだね」。「特に行きたいところはないんです」。「だったら道に迷うことはないわけだ」みたいなやりとりをするんですけど、子供心になんて賢い猫なんだって思いましたね。 ――それにしてもずいぶん鮮明に覚えてますね。 榎戸:印象に残った場面ははっきり覚えちゃうんですよ。好きな映画なら全部セリフまで、暗唱出来た作品もあります。『不思議の国のアリス』に限って言えば、ルイス・キャロルの論理的な遊びには、今でも惹かれますね。 ――今の仕事に就かれた理由は? 榎戸:学生時代から創作活動のマネゴトみたいなことはやってましたね。高校生になってからかな。学生時代に映画を作ったりとか。学生のお遊び程度でしたけどね。 ――その学生時代というのは、幾原監督と一緒だったときですか? 榎戸:まぁ、そうなんだけど、当時そんなに幾原と一緒に行動していたわけじゃなかった。幾原は隣にいて同じ様な映画制作をやってて、お互いやってることをけなし合ってたという(笑)。まさか将来そいつと組んで仕事することになるとは。ま、仲は良かったですね。一緒に映画を観たり、作品の構想を話し合ったり。シナリオを一緒に作ったこともあるけど、結局は意見が別れて「やっぱりお前とはできない!」って何度も決別したり。あ、それじゃあ、今と変わんないか(笑)。 ――どんな映画作品を作ってたんですか? 榎戸:映画というよりは、映像作品ですね。まだ10分ぐらいの短編しか作れなかったですよ。当時はビデオが世間に出始めた頃で、僕は大きめのユーマチックという機材をを使っていました。周囲には映像を作りたがる者はいっぱいいましたね。ビデオコンテストなんかもあちこちで開かれてて、作品を応募したりしてました。そんな中で、僕も幾原もNHKのビデオコンテストとか、雑誌の主催してたアマチュア映画コンテストみたいなものでわりと賞とかとってました。すぐにそういうのには飽きちゃったんですけど。 今、思い返してみて幾原を偉いなぁと思うのは、僕はビデオ派だったけど幾原は当時から8ミリにこだわってた。「映画はフィルムでないとダメだ」みたいなイデオロギーを持っていて「ビデオで映画を作るのは楽すぎていかん。そんなのに慣れたら、ラクして仕事するのが身についてしまう」みたいなことを学生時代からずっと言ってたんですよ。そのこだわりは偉かったな。 ま、どっちかというと僕は文学青年を気取ってたけど。当時の作品をいま見ると辛い気分になるだろうな(笑)。いや、作品そのものより、その程度の作品で満足していた当時の自分の未熟さが、もう、カンベンしてくれって感じで(笑)。 どうして僕は生まれついての天才じゃなかったんだろうとつくづく思います。ま、ハタチで詩人になれなかったから、あとは100まで生きて小説書くしかないですね(笑)。 ――脚本のお仕事をされて、もう何年ぐらいになるのですか? 榎戸:テレビの仕事を初めてからは6年ぐらいです。 ――初めての脚本作品は何だったんですか? 榎戸:『セーラームーン』3作目のS(スーパー)です。上京してきて初めての仕事です。 ――なんでも幾原さんの誘いで始められたと聞きましたが。 榎戸:そうです。 ――と、いうことは、それまでどこかで執筆活動をされていたんですか? 榎戸:某出版社から小説を1冊だけ上梓してました。この秋から某誌で久しぶりに連載小説を始める予定です。 ――『セーラームーン』以降の作品は?またどこか所属はされたんですか? 榎戸:ずっとフリーです。『セーラームーン』以外は『エヴァンゲリオン』を4話ほど書きました。このふたつは同時進行だったんで、時期がいつだとかは把握してないんですけど。『エヴァゲリオン』なんかは脚本を書いてから2年後ぐらいに完成したので、放映されたときには「懐かしい~」って感じでした(笑)。 ――アニメシナリオはどのように作業が進められるのですか? 榎戸:ケースバイケースですね。脚本の仕事はこうだというフォーマットは全然ないですね。らとえば東映とガイナックスではまったく違う。同じ脚本の仕事とは思えないくらいに(笑)。 ま、その場にいるメンバーで仕事のやり方が決まってしまうのが、この仕事の面白いところでもあると思います。けっこう共同作業って好きなんですよね。ふだん一人きりで仕事してるので、いろいろ刺激になります。 ――先程の話になりますが『ウテナ』の脚本も同時進行だったのでは? 榎戸:いや、それはないです、と表向きはそう言っておかないと・・・いろいろ差し障りが(苦笑)。 ――『ウテナ』の企画はいつ頃からあったんですか。 榎戸:うーん、それこそずーっと昔から幾原とは『ウテナ』の話をしてたから、明確にはいつ頃かっていうのは、はっきり覚えてないんですよ。 ――もうその時から“ウテナ”の名前はあったと聞きましたが? 榎戸:えーっと、物語も世界観も全然違う別の企画だったんだけど、主人公に近いポジションにいるヒロインがウテナという名前の企画があった。由来は花を守ってる萼(がく)の部分の名前なんです。単に使いたい名前のひとつだったんだけど、幾原がえらく気に入って。「次の作品の主役はその名前でいこう」と決まったんです。先に“少女革命”という言葉を幾原が用意していたと記憶してます。 ――さいとうちほ先生に企画の話をお持ちになる95年4月には『ウテナ』の前身になる大まかなストーリーがあったんですか? 榎戸:いや、さいとう先生に声をかけた時はまだ全然物語らしいものはできてなかったはず。 ――『エレガンサー』というタイトルで、キャラが描きおこされていったと聞きましたが。 榎戸:うーん、その“エレガンサー”っていうのは・・・難しいな、どう言えばいいんだろ。強いて言えば、デュエリストというコンセプトのひな型ですね。 ――メンバーが揃って、実作業に入ったのはいつ頃になるのですか? 榎戸:実質の執筆作業は95年ごろになるのかなあ。ともかく『ウテナ』プロジェクトが本格化したのは、ビーパパスの名称が決まった頃と言えるかもしれませんね。 ――では、『ウテナ』の設定、ストーリーなどが今の形に決まったのは? 榎戸:ずいぶん最初のものからいじってきたから、どの辺りからこうなったのかを、特定するのは難しいな。現在発表された物語に決まったのは、かなりギリギリだったような気がする。 ――『少女革命ウテナ』としてのキャラクターは決まっていたんですか? 榎戸:何人かはデザインは決定していましたね。もうウテナもアンシーもいたかな。 ――では、まず決定したエピソードまたは設定などはありますか? 榎戸:そうですね。僕の中で、これこそが『ウテナ』だと自覚できた原型のアイデアは「互いの胸につけた薔薇の花びらを散らせば勝利する」という決闘のルールを思いついたときだと思います。そのとき「これはいけるな」と思ったんです。テレビシリーズとしてストーリー展開できると。 物語を作っている頃に「戦闘シーン」があるべきか、という出口のない議論を延々やってたんですね。外の方から「やっぱり何かと戦わないと困るよ」って要求がきても「別に怪獣とかが出るわけでもないのに、何と戦えばいいの」とか。かといって怪獣が出てきたら『~セーラームーン』との区別化ができないし、人を殺すわけにもいかない。自分の中ですごい葛藤があった結果、薔薇の散る演出を思いついた。その時、目の前がパァっと開けた。神の声が聞こえたんです(笑)。 それはテーマというより脚本家としてのテクニカルな部分なんだけど、見せ物としての決着がついたんです。 ――それは『ウテナ』の制約すべてを、クリアに出来るアイデアだったと言えますね。 榎戸:その決闘シーンが決まった時点で“エレガンサー”から“デュエリスト”になった瞬間と言えるでしょうね(笑)。とにかく、その決闘シーンは「必然」だったと思いますね。本当にその作品にとってのベストのアイデアが出た時は、反対意見は出ないんですね。その瞬間には本来あるべき作品の形を引きずり出した快感がある。 ――2年間の制作作業の中で、崖っぷちに追い込まれたことは? 榎戸:もう危機また危機の毎日でした(笑)。でも、思想面で追い込まれたことはなかったですね。幾原と僕との共通言語がちゃんとあったし、あいつとは思想的に似てるから。さらにさいとう先生も似た思想だったので(笑)、ある種の共犯関係が生まれた。 ――ではどのあたりが崖っぷちだったんですか? 榎戸:それはもう表現手段で。思いついた話をどう表現するか、見せ物としてどう面白くするか、という議論の連続でした。そんなアニメがあるか、それをテレビでやっていいのか、みたいな(笑)。 ――なにか具体的な例としては? 榎戸:たとえば女の子2人を出すと決めた時、その設定が花嫁とデュエリストと決まっても、舞台を男子校か女子校か共学にすべきかで毎日悩んでました。この夏の劇場版で、ウテナが男の子として転校してくる設定があるんですけど、それは最初テレビシリーズでも出ていた案なんですね。ウテナは男の子として男子校にやってくるべきじゃないかとね。結果的にはテレビリーズの設定になったわけですが、それが正解だったかどうか・・・ただ女の子の自立というテーマを見据えたとき、男子だけとか女子だけの舞台だと、環境自体が特殊になるじゃないですか。それだと本質的なテーマから目が逸れちゃうんじゃないか、という危険を予感した。 ‘特殊な空間のみで成立する特殊なテーマ’だと捉えられるのは本意じゃない。そういう意味では変わったキャラクターがいたとしても、男女共学の舞台に落ち着かせました。でないと、我々が、本当に言いたいテーマが‘普遍的なもの’であるということを、表現できないと思ったんですね。 ――放映が始まった時点では何クールの放映か決まっていなかったと聞きましたが。 榎戸:そう、まだ2クールになるか3クールになるか、まだ決まっていなかった。実は<黒薔薇編>を書いてるときにも決まっていなかった。シリーズ構成泣かせな番組でした。 ――シリーズ構成という役割は、具体的にはどのように立ち回るのですか? 榎戸:『ウテナ』の場合だと、監督と打ち合わせてから各話のエピソードを僕が他の脚本家さんに発注。ギャグの話だと、もうギャグでいこうとだけ決めて比賀昇さんに頼んだりとか。 ――画面を通して自分の脚本の放映をご覧になって、率直な感想はどうでしたか? 榎戸:毎週楽しみに観ていました(笑)。 ――脚本を書くとき、そのシーンというのは浮かんでいるものなんですか? 榎戸:一応、自分なりにイメージしながら書いてはいます。脚本の場合は『ウテナ』はおもしろくてね。出来たフィルムを見ると、脚本が目指していた方向をちゃんと把握しながら、それを上回る表現をよく見せてもらってた。ホント、勉強になりましたね。実践に勝る修行なし(笑)。 例えば<黒薔薇編>でエレベーターが降りていくシーンとか。「これが見たかったんだ、何て言ったらいいのかわからなかったんだよ」って。スタッフのみんなと心が通じ合う瞬間ですね(笑)。この仕事も捨てたもんじゃないと(笑)。 ――脚本という役割をどう捉えていますか? 榎戸:脚本は分業作業のひとつであって、フィルムは監督とか演出のものだと思う。監督をいかにサポート出来るかが脚本家の仕事だと思います。脚本家があまり主導権を持つと、本来持っているフィルムの生々しさが損なわれることが往々にしてあるから。ストーリーを説明するだけのフィルムは僕らの仕事ではないと思っています。 ――特に気に入ってる具体的な部分、またはセリフなんかはありますか? 榎戸:そうですね・・・7話のラストの樹璃のセリフなんかうまく決めてくれたなぁと思いますね。(※「そう、憎んでいるさ。私の想いに君は気づきもしなかったんだから」) ただね、セリフというのはドラマとキャラクターの関係性の中で初めて意味の出てくるもので、セリフだけ抜き出して名セリフ集みたいなものにしても、何でこれが名セリフなのかよくわからないってことがよくあるんですよ。あくまでもそのフィルムの中で、そこで起こっている状況の中でキャラクターが言うからセリフは意味がある。脚本は詩とは違いますからね。 ――では逆にここは失敗したな、とか思う箇所はあります? 榎戸:それは秘密です。 ――「<黒薔薇編>が解りやす過ぎた」と監督は何度か発言されていますが、その辺りは榎戸さんはどうなんですか? 榎戸:やってる当時から言ってましたね。ただ、シリーズのまんなかに<黒薔薇編>があったから、ファンの方も理解しながらついてきてもらえたんじゃないかと思うんですけどね。あれ以上ワケのわかんないことやったら、誰もついて来ないのでは、心配はないのか、幾原よ(笑)。 まぁ、監督としてはどこかで見たような話にしたくなかったんだと思います。幾原は基本フォーマットのことを指摘したんだと思うんですけどね。誰かを誘惑して、ちょっとホラータッチなムードでデュエリストに仕上げて、それをやっつける話が続くじゃないですか。それが『ウテナ』にとってどうかという疑問はあっただろうと思う。 ただあの時点で俺にはあれ以外の展開は思いつかなかったし、今でもほかの選択肢は思い当たらない。 ――『ウテナ』シリーズを終えて、何かこみあげてきたものはありますか。 榎戸:情熱かな(笑)。やれて良かったという思いは確実にあります。 もう、ああいう作品はテレビでは出来ないんじゃないかな、というのも、最終回の辺りでポケモン事件があったじゃないですか。あれはいろんな意味で象徴的な事件に思えました。『ウテナ』は放映タイミングがギリギリの作品だったんでしょうね。それに駆け込んだ形でいろいろやれて良かったと思います。 ――今現在のアニメに対して思うことはありますか? 榎戸:みんなで『もののけ姫』を超える作品を作ろう(笑)。 ――脚本を書く上で目指していた人はいますか? 榎戸:シェイクスピア(笑)。 ――では、アニメの脚本家になるために、何をすればいいのでしょうか? 榎戸:学生時代にアニメの監督になりそうなヤツと友だちになっておく(笑)。いや、ぜんぜんわかんない。アニメの脚本家という職業があるのかどうかも疑問だ。 少しだけ偉そうなことを言ってもいいなら、才能を認めてもらいたいだけでクリエイターを目指す人はきっと潰れると思う。 才能なんてないけど「それでもこれをやりたい」というものを持っている人は、たぶんなにかになれると思う。それだけの差じゃないかな。あと、より具体的なヴィジョンを持っているとやっぱり強いと思います。やりたいものが具体的であれば、次にやるべきことが見えてくるから。 (1999年5月11日 三鷹にて) |
ビーパパスの看護婦さん役 さいとうちほインタビュー
|
- 2008/05/11(Sun) -
|
さいとうちほ (原案・漫画) インタビュー
ソニー・マガジンズ 「薔薇の全貌」 袋とじインタビューより ――壮大で華麗な少女まんがを発表し続けているさいとう先生ですが、やはり昔からこういった物語がお好きだったんですか? さいとう:そうですね。でもこの路線になったのは後からで、小さい頃は『鉄人28号』とかの絵を描いてました。なんかスゴイ得意でしたね(笑)。 ――少年まんがとかお好きだったんですか? さいとう:うん、何でもOK。読んでいるまんがに影響されてしまって、『サインはV』を読めばスポ根もののストーリーを考え出しては止まんなくなっていました(笑)。 ――すぐにまんがの主人公と自分をだぶらせてしまう方だったとか!? さいとう:それはちょっと違っていて、作品を観て泣いたりするんだけど受けた感動を自分なりに表現していたっていう…。 ――子供の頃から作り手の考え方ですね。では今のロマンチック路線になったきっかけは? さいとう:中学から高校にかけてスゴイ映画マニアだったんです。その辺ですね。 ――やはり壮大な大河ロマンものでしょうか? さいとう:ううん。映画史にちょっとでも名前が出てくる作品か、監督のものだったら何でも観るっていう…1930年代から50年代にかけてのものが好きで。 ――例えばその中のひとつで印象に残っているタイトルは? さいとう:中学1年のときに『ウエストサイド物語』でカルチャーショックを受けて、1年ぐらいの間ずっとそのことを考えていました(笑)。当時は1度しか観れなくて。だから、ずーっと後引いちゃって、授業中とかも黒板見てるとそこがスクリーンになっちゃう(笑)。1回観ただけなのに、頭で再上映して。ずっと記憶をとっておきたくて…。 ――よほどインパクトがあったんですね。覚えているワンシーンを描いてみたりとかは? さいとう:写真を見て描きました。とにかく忘れたくなかったから。だって自分で脚本書いて、どういう流れだったか覚えておこうとしたり…。 ――絵を描けて、話も作れるならまんがなども? さいとう:まんがって程じゃないですけど、何か描いてたかな!? 実はこの経験というのが、結構今に生きていて。1つの作品にすごく入れ込んで分析して、そしてその中でまた再構築をして話を作る。これって今の私のやり方の原形なんですよ。 ――他にそうやって夢中になった作品はありますか? さいとう:高校1年のときにR・レスター監督の『三銃士』。これがまた気に入っちゃって。それは22回映画館で観ました。 ――それはまたもの凄い(笑)。 さいとう:『三銃士』を追っかけて、どこかの名画座でかかると1人でお弁当作って行き、それをテープレコーダーに録っては、また家で1日中聞いて(笑)。 ――どの辺りに感銘を受けたんでしょうね? さいとう:そうですねぇ、んー、何だったのかな。『三銃士』って心正しき騎士ってイメージがあったんですが…観てみたら全然そんなことなくて。忠誠心より、お金だったりプライドだったり、あっちでもこっちでも不倫してるし。それが妙に明るくて。そこがすごく楽しかったんですよ。でもなんであんなに入れ込んだのか、今観るとよくわかんないですね。 ――やはりビジュアル的なところに惹かれたのでは? さいとう:うん、それはある。衣裳が当時のものに忠実に再現されていて。変にピラピラしていなくてシックで機能的で、どうしてこうなっているかってわかるように着くずしたりしていて。作品全体にきれい事でないリアリティを感じたんですね。 ――さいとう先生の作品でも、中世を舞台にしているものがいくつかありますよね。やはり『三銃士』などの映画が影響しているとか? さいとう:そうだね。あと「宝塚」もかなり入ってる。最初はテレビで『ベルサイユのばら』の公演を観たんだけど、劇中のオスカルとアンドレの結ばれるシーンって、ただポーズをとるだけで表現してある。それをオスカルとアンドレ役のスターさんが、ちゃんとセックスを連想させる、洗練されて色っぽいダンスを踊るわけ。そういう方法での見せ方って私にはとても新鮮なものだったから。 「ダンスってこんなに色っぽいものにもなるんだなぁ」と感心してしまって。そこから「宝塚」に目覚めたんだよね。みんな女性とはわかっているけど、それを越えたセクシーさがある。そこが好きなのね。 ――その辺りの原体験というのは、今の作品にも入っていますね。 さいとう:なんかね、色っぽいことに貢献しようと思って(笑)。自分でそれを表現したり、作る側になりたいって気持ちが湧いてきちゃって。 ――その頃観たものがすべて創作活動に役立っている様ですね。 さいとう:そうですねぇ、今頃投資した分が戻ってきた感じ(笑)。やっぱり子供時代の何も無いころに一生懸命に観ていたから、残っちゃっているんだと。当時は今みたいに便利じゃないから、録画して観るわけにもいかないし逆に良かったのかもしれませんね。自分のものになったというか…自分の記憶に残すしかなかったから。 ――今はネットなんかで情報見れちゃいますからね。すべてにおいて手薄になってしまうような気がしますね。 さいとう:私の頃はモノでも何でも強烈に飢えていたからねぇ。 ――本格的にまんがを描きだしたのはいつ頃からなんですか? さいとう:中学生のときです。 ――好きだったまんが家さんは? さいとう:細川智栄子先生の大河ドラマ、木原敏江先生の悲しいストーリーなどに泣きまくった。あとやっぱり萩尾望都先生、竹宮恵子先生ですね。 ――同級生なんかも同様に? さいとう:うん、娯楽の少ないときだしみんなも読んでいました。でも私って早く独り立ちしたい子供だったのね。で、とにかく「まんが家になってやる」って決め込んでいた。だから何でも吸収したいという気持ちで読んでいた。 ――将来を見据えて行動しているのに対して、周囲と少し違うような気持ちになったりとかは? さいとう:うーん、そういうウジウジってあんまり考えなかった。とにかく私は大人になって、お金儲けて(笑)、好きなことするんだって思ってましたから。子供でいることがすごくイヤだった。両親とか先生にも反抗しなかったですね。もう関係ないというか…。 ――随分と肝が据わっていますね。ひたすら前向きですね。 さいとう:まんが家っていうのも結構変な理由で。子供なもんで早く自立できる職種を考えたら、これしか思いつかなくて(笑)。他にもいろんな仕事があるのに。「まんが家になろう!」と思ってから割とそれ一直線できちゃったという…なんだかシンプルな生き方をしてしまいました。 ――デビューして何年になるのですか? さいとう:17年になります。最初は『少女コミック』で描いていました。 ――やはり映画と『宝塚』で培ったものが盛り込まれていたんですか? さいとう:いや、『少女コミック』ですからねぇ。もう普通の学園もの。でも描かないわけにいかなかったので、自分なりに色っぽいシーンをいっぱい入れて何とかしていた。でもイヤでしたね(笑)。早く自分の表現したい世界を描きたくて。 ――今現在はドラマチックな物語が多いのですが、それを描くまでの経緯は? さいとう:『宝塚』の影響が強いときだったんで、ちょっとセクシーな要素が入っているものがやりたいと思っていて。その頃は普通のラブコメが全盛だったから、女性が描くセクシーなものってレディースしかなかった。そこで「少女まんがから外れない程度にセクシーなものを上品にやろう!」という発想に至ったんだよね。なんか、そういうの誰もやってないからすき間だなぁと思って(笑)。しばらくそんな感じで学園ものを描いていました。でもそのうち現代物だと物足りなくなってきちゃって。 ――やっぱり中世っぽいものへの想いが…。 さいとう:そうですね。コスチュームなど派手なものをバンバン描きたいなぁって。やっぱり誰も描いてなかったジャンルで。そして勝負してみたら出来ちゃった。そこからこの路線になったんでしょうね。 ――さいとう先生の作品の殆どにはドレスが登場しますよね。 さいとう:私、幼稚園のときから中学1年までバレエをやってたんですよ。そこでやっぱりドレスみたいなもの着ていたから。だからそういうフワフワ~っていう感じの衣装が好きなんだと思う。 ――なんだか『ウテナ』のお話に繋がりそうですね。最初、幾原さんがさいとう先生へキャラクターを依頼されたとき、やっぱり衣装の辺りからお話が来たんですか? さいとう:うん、「中世っぽいコスチュームでお願いします」って言われたんだよね。「嬉しい」とか思って、やる気になっちゃいましたね。…でも、それって実は“エサ”だったんですよ。 ――さいとう先生に描いてもらうための策? さいとう:そう(笑)。後に幾原さんや小黒さんから聞いた話なんだけど、とにかく仕事を受けて欲しかったんで、私の好きそうなものを、でっち上げたみたいなんですよ(笑)。人を陥れるって程じゃないんだけど、なんかそれに凝っていた時期らしくて(笑)。いろいろ計画していたみたいなんですけどね。それに、私はまんまと…(笑)。 ――それは何が何でもこの企画にさいとう先生の絵が必要だったんだと。幾原さんは確か、さいとう先生が表紙のコミック誌を書店で見かけホレ込んだんですよね。それは何という雑誌だったんですか? さいとう:最初は『プチコミック』の表紙だったみたい。幾原さんはビジュアルから入る人みたいで、何かピンと来るものがあったみたいなんですけど。その絵っていうのが、極めて裸っぽい超ロマンチックラブシーン(笑)。私が先程の話にあった「セクシーな感じを上品に表現しよう」という試みをしていたときです。それに幾原さんが引っ掛かってくれたという(笑)。 ――初めからアニメの企画としてお話が来たんですか? さいとう:いや、ゲームの企画ということでした。ただ彼らの目的はアニメにすることだったんで、私の描いたキャラを持ってアニメ企画としてあちこち回ったみたい。 ――その初めに出来たカラーの企画書というのは、いつ頃出来たんでしょう? さいとう:'95年の6月ぐらいだったと思う。最初、幾原さんと小黒さんがお願いに来て、その場で承諾して。次に幾原さんが長谷川さんを連れてきて、ちょっとキャラを描いて。で、もういちど打ち合わせしたんだっけ、そのぐらいの期間で最初のは出来ちゃった。その頃は幾原さんもまだ遠慮していて、ちょっと要望を言うぐらいだったんですけど、いざアニメやまんがになると決まった時点から、もう激しくやり取りが始まって…。「こんなにしつこく要求されるのか?」ってぐらい、いろいろ言われましたね。 ――具体的に言うと、どういったところが要求されたんですか? さいとう:やっぱりウテナとアンシー。ともかくグッとくるまで。私はその、グッとというのがよく解らなくて。「単にデザイン的なことを言われてるのかな」と思い、いろいろ出したんだけど「そうじゃないんだ」の連呼で、描いても描いても納得してくれなくて…。もう、泣いたこともありましたね(笑)。 ――相当主役にはこだわっていたようですね。 さいとう:幾原さんが求めていたのは「あっ、かわいい!」って煩悩を刺激させる絵だったのね。その絵から受けるインパクトでイメージを膨らませたかったみたい。「だったら先に言ってよ」って感じ(笑)。もの凄く考えちゃいましたから。 いったんインパクト受けてからはスカートは短くなるし、最初は普通の学ランだったのにズボンがどんどん短くなってきちゃって。 ――ウテナって、普通にズボン長かったんですか? さいとう:初めだけは…。その頃幾原さん『~セーラームーン』をやっていて、夜中にFAXを送ってくるの。「こういう風にしてくれ」やら「『幻魔大戦』みたいな制服はどうか?」といった具合で。そんなやり取りを延々していました。デザインの変更は幾原さんが主導でやっていった感じですね。 ――じゃあ、幾原さんの感性がOKになるまで描き続けたわけですね。 さいとう:私は女だから、学ランにショートパンツという発想がよくわからなかった。最初に聞いたときは「なんてエッチなこと考えるんだろう」って。で、言われた通り描いてみたら結構かわいい(笑)。なんか、そのググッと具合は幾原さんに教えてもらった感じです。キャラのディティールなんかを詰めていくうちに、上着の割れ目具合や、そこからチラっとのぞくオシリの見え具合まで気にするんですよ、男の人って(笑)。 「バストトップの位置がココだから、ココの位置にボタンが欲しい」とか(笑)。 如何にハダカを想像させる服を作るかっていうところに、もの凄く神経使っているのがわかりましたね。ショートパンツの丈にしても、微妙にあるらしいし(笑)。絵描きとして勉強になりましたね。 ――やっぱり潜在的なセクシャリティって、メジャーになる要素のひとつですからね。 さいとう:新たな発見でした。私、少女まんが家なのに女の子をおざなりに描いてる部分があって。絵的に適当とかではなくて、追及していなかったという感じ。女の子の持つキレイさとか色っぽさ、そこへの意識が変わりましたね。割と体なんかはグラマーに描くようになりましたね。愛情込めているし。男の人の絵でググってくるとことはプロなんですけどねぇ(笑)。 ――性の違いというところで、双方同じようなことを言ってるのかもしれませんね。 さいとう:両方から見られるようになって良かったなって思います。 ――それでは『ウテナ』の原作まんがの部分についていろいろ聞かせてください。まず、まんが連載開始の流れというのは? さいとう:この辺は予想もつかない大変な作業でした。 まず始めに小学館にお話を持っていったんですよ。最初の企画段階では、今の『ウテナ』よりもっと低年齢向けの『~セーラームーン』っぽいものだったので。総合的な判断の結果「ちゃお」でやってみようということに…。私って「ちゃお」初お目見えだったんですね。「ちゃお読者にアピールという点からも、まず載せてみましょう」ってことで、『薔薇の刻印』という読み切りを描いたんです。 アニメの脚本は7話ぐらいまで出来ていたのかなぁ。とにかく設定が整っていないにもかかわらずパッと描いちゃった。だから後に榎戸さんが『薔薇の刻印』の設定をアレンジして入れてくれたりして。 それから始まった連載『少女革命ウテナ』の方も同様の問題にぶつかっちゃって、始めから「どうなるんだろう、これ」みたいな感じでした。 ――それは『ウテナ』のその後の展開が見えていないという点でしょうか? さいとう:そう。第1回目はまだ脚本通りでいいんだけど、次が無いっていうか…。テレビアニメの脚本っていうのは、最初にまず世界観がわかる基本の話が来て、その後何話かは本筋と関係ないエピソードとかで。結局、ストーリーは殆ど進んでないってことになるんです。 それとは違い毎回、筋を追っていくのがまんがだから。そういうところで、どう進めていいのかわからなくなっちゃって。幾原さんや榎戸さんに「この話はどういう話なのか?」って何度か聞いて教えてもらったんだけど、いまいちまだ混沌としていて…。ビーパパスのメンバーに集まってもらってアイデアを出してもらったりしたんですけど、そのうちそんな暇も無くなってきちゃって。で、もう途中から「まんがはさいとう先生に任せますので、好きに描いてください」と言われて「好きにやります」ってことになりました(笑)。 ――でも、キャラの関係なんかで後の展開を考えると接近してはいけないとか、作品の肝に触れてしまう危険などがありそうですよね。 さいとう:だからそこが難しくて、アニメで決定していないところがまんがでは必須な要素だったりするし、「ここ触っちゃいけない」「そこは本筋がバレてしまうからダメ」ばかりだったから、話を進めるのが大変でした。しかも「ちゃお」だから小さい子に解る話にしないといけなかったんで。 ――制約が多いですね。 さいとう:テーマとかもバーンと出すわけにもいかず。この話のテーマって「女の子は自分の足で歩け」って言ってるようなもんですから、「王子様はいない」「男に頼るな」話ですからね。それを「ちゃお」の読者に向けて提示するのは、私のまんが家としての部分でちょっと違うなーって。「小さい子にそんなこと言っていいのかな」っていう思いがあってね。 もう少し大きくなってからならいいんだけど、小学生の頃なんて、どうやったってひとりじゃ生きていけないじゃないですか。どうしても親とか何かに依存しなくてはいけない存在に向かって「人に頼るな」なんて言えない。「王子様はいないから自分で歩け」…やっぱり小学校低学年に言っちゃいけないんじゃないかと。 だから『ウテナ』の根本的なテーマを無視して描かざるを得なかったんですよね。それが辛くて。でもここを外しちゃうと、アニメ版で言わんとしていることが、まんが版だと別のものになってしまう…。だから、私的には成功しているとは思えないんですよね。あまりにも辛くて読み返せない…。 ――創作ってある程度の縛りは必要だと思いますが、ちょっとがんじがらめな気がしますね。 さいとう:だから今回の『~アドゥレセンス黙示録』は描きやすかったですね。自分なりに「ここは強調して削って」という感じで進めていける。大人っぽくしても大丈夫だし。 やっぱりねぇ、アンシーが「薔薇の花嫁」で、花嫁になったら何をするか、ここがいちばんおいしい部分なのに「ちゃお」では描けないですからね。 ――教育上いちばんいけない部分ですから。 さいとう:そこをごまかしながら、触れないように作っていったんだけど。私の中ではめちゃくちゃ不自然だったからなぁ。幾原さんは監督だし脚本も理解していたから「アニメの放映があるからまだ描かないでほしい」と考えていて、私にはあえて明かさずに『ウテナ』をコントロールしていた時期があったと思うのね。私はその辺のからくりがわからなくて、榎戸さんに説明聞いて何とか描いても、アニメの放映観るとたわけわからーん! の繰り返し。 ――口でいくら説明されても…というところですよね。演出は途中から凄いものがありましたが、その辺はどうだったんですか? さいとう:第3部「鳳 暁生編」の「二人の永遠黙示録」でしたっけ?あれ観たときはさすがにびっくり(笑)。 ――かなりきていましたね。他に印象に残っている演出などありますか? さいとう:“胸はだけ”なんかも、「どういう意味があるの?」っていつも聞いてみたんだけど、解るような解らないような答えでしたね。 ――今となっては理解出来ました? さいとう:要するに“大人”ってことを表現したかったんでしょう。暁生で云うなら生徒から見たら、いかに“大人”であるかということ。冬芽や西園寺なら一般生徒より“大人”であると思い込んでいるところとか。それを茶化して表現していたわけですよね。 そして所詮あの程度で“自分は大人”だと信じている人っていうのかな。 ――なんだか最終回に通じる話ですね。 さいとう:まぁ、私は女だから男の人ってああいうポジションにいる人物は、いつまでもカッコ良く男の美学を貫いていてほしいとは思うんですが。『ウテナ』では、そういう大人っぽくしている人物のイカサマ性とか薄っぺらな部分を言いたかったんだと思う。 それを入れようとわざわざ演出で“胸はだけ=大人ぶっている”をやっていたんじゃないでしょうか?最初は暁生が何故あんなことをするのかが、わからなかったけど。まぁ…今となっては「暁生はあの程度の“大人”だったんだな、それはそれで良し」という感じですねぇ。 ――アニメ版のようなシュールさは求められなかったんですか? さいとう:そこは要求されなかったし、あれは画面で観るからこそおもしろい演出法でしょ。シュールを追求するまんがならやる意味もあるけど…。先程言ったように、私は男の人はカッコ良く描きたいのね。やっぱりプロとして、そういう部分を外しては成り立たなくって。 読者の女の子が何を夢見て憧れて、話を読み進めていくのかを考えてまんがを描くわけだから。やっぱりアニメ版の暁生や冬芽って、女が夢見る“カッコイイ”とがチョット違う(笑)。 ――カッコ良く描こう、という意志は感じられましたが、それで女性がときめくかって云ったら?な描き方なのかもしれませんね。 さいとう:でも、やっぱり男の人の作り手としては、女性の支持を得るためだけの表現をしたくなかったんだと思う。ウソつきたくなかったんだと思う。そこは認めてあげたい、立派だ…。だからもうアニメは彼らのもの。まんがは私のもの。「自分は自分でいきます」って気持ちでやっちゃってましたね。 ――どの辺りに御自身を入れてたのですか? さいとう:私としては暁生にカッコ良くなってもらおうと(笑)。そこに魂入れようとしたんですけど。だからアニメ版とは別人になっちゃった。暁生がウテナを誘惑するところなんかは好きに描きましたね。セリフなども自分なりに換えたりして。 ただ、どうしてもウテナとアンシーだけは掴みきれなかった。やっぱりアニメの方だとウテナとアンシーのレズっぽいところが肝になっているじゃないですか。なんか私はいまいち興味が持てなくて…。「アンシーのキャラってこうだったんだなぁ…」っていうのが決定するまで、すごく時間がかかったこともあったし。 ――アンシーはさいとう先生の作品には登場しないタイプですよね。 さいとう:『~アドゥレセンス黙示録』のアンシーなら娼婦的に描けるんで掴みやすかったんですけどね。テレビ版のアニメでは、“内面描写”を極力避けていたから、アンシーが何を考えているのかが解らなくて。だから泣かせてみたり、かわいそうにしてみたりと、気持ちが近づけるようにやってはみたんだよね。でも、なんかかわいそうな感じにならない。こう、開き直ってドーンみたいなところがあるキャラだから。本心の悩んでいる部分は描いちゃダメだったからね。 ――ウテナも少女まんがの主人公にしては、悩みが少ないですよね。 さいとう:そうだね。「ウテナが悩まないと読者が感情移入出来ない」って担当さんに言われましたね。ウテナはアンシーのために“いちばん悩む”っていうポジションなんだけど、その“いちばん悩む”ほどアンシーはウテナに何かしたんだろうか? ずっとそんな感じで、描いている私自身も迷っていましたね。 ――避けられないところですよね。『ウテナ』の物語って最後までそこだったんで。 さいとう:仕方ないから、また自分なりにアレンジして。冬芽を少しウテナに恋する男ってポジションに置いて。それって、やっぱり読者の女の子への快楽を味合わせてあげなくてはいけない、というところなんだよね。ラストのウテナはアンシーのためにいなくなるんだけど、じゃあウテナ自身の快楽ってどこにあるんだろう?って。 ラストは誰からも愛されず消えちゃうんじゃ、かわいそうな主人公で話が終わっちゃう。もちろん最後にアンシーがウテナを大事に思うところで一挙に救いがやってくる。「だから最後まで待て」って構造になっている。 私もすぐに解決がやってくる読み切りなんかでは、その手法はよく使うんだけど。連載ではキツイんです。癒しを待ちきれない読者は必ず離れていってしまう。私もプロ生活長いですから、そういうことで連載中止という辛い目にしょっちゅう合ってますから。それだけは避けたかった。だから冬芽を少しイイ男の位置に変えてシビアな面を少し減らそうとしたわけです。 ――そこに関してはもう「ちゃお」の方針に近いんですか。 さいとう:というより、もう自分の方針ですね…。『ウテナ』の話の創り自体が女の子にあんまり快楽を与えない構造になっちゃっていたから、それでちょっとケンカしたんだよね(笑)。幾原さんに「あまりにも女の子を無視している」って。でも解決しなくて…。もう、そこからは自分なりに少しでも女の子に快楽を与えられるような方向に軌道修正しつつ、ラストまで持っていったんだよね。でも、その辺りってちょっとフクザツな思いもあったりしますね。 ――男性が考えた女の子の話ですから、どうしても考え方の相違が出てしまうものなのかも!? さいとう:まぁ、これがまったく逆の立場だったら、女の制作者が男の子2人がラブラブ~!みたいになるのかも(笑)。やっぱりディティールに凝りまくりで。そう考えると無理ないか(笑)。 ――描いていて楽しかった部分は? さいとう:ビジュアル的に私好みなんで、描いていて気持ち良かった。 ――原作付きのまんがを描くのは『ウテナ』が初めてですか? さいとう:いや、そんなことないですよ。月に何本も描いてるから、話創るのがめんどくさくて(笑)。人が考えてくれるなんて、こんなにラクなことは無い!とか思っているから。原作付きで全然構わない。ただ、あんまり感性が違っている人だと付いていけない部分が出てきてしまうから。共感し合って描けないのは作業的にも作品のクオリティ的にもよくない結果になるし。 幾原さんや榎戸さんとは割と考え方が共通したから、その辺は大丈夫だったんですけどね。…まぁ、それでもどこか上手くいかないことが、起きてしまうものなんだな、と(笑)。 ――やはりどこか作り手として、少し思うところがあるのでしょうか。 さいとう:私個人としては‘ひとりで生きていかないとダメだよね’っていつも思っている。だから『ウテナ』のテーマって私的にはOKなんだけど、まんが家として読者が満足いくようなものを提供しなくてはいけないという立場に立ったとき、やっぱり対立が起きてしまう。読者対象さえ違えば、そんなに問題も無かったのかも…。低年齢層向け少女まんがは「あなたはそのままで愛されるんだよ。いつかは王子様が現れて、助けてくれて、快楽を与えてくれるんだよ」っていう癒しと肯定だから。 『ウテナ』の世界では本質的に全然違うことを言っていて、大人になってから社会の切り捨てを分かっている人が共感できるテーマなんだよね。だからその辺が上手に消化できなかった、という思いがありますね。 ――ご自身の信条とまんが家としての信念があったんですね。 さいとう:私10歳ぐらいのとき「自分で仕事が出来れば、ちゃんとひとりで生きていける」って思っていた。でも、その頃にそんなこと考える子供なんて周りにいないし。だから、そういうことを話す人がいなくて、妙に大人っぽい頭になっちゃって…。 あんまり子供らしくないというのも、よくないことが一杯あるからねぇ。だから余計に子供を突き放したテーマは出来ないな、と思うんですよ。 ――諸々に気を使いながら、毎月まんが連載をこなしていくのは大変な作業ですね。でもやはり企画の受け入れ側でもある「ちゃお」からの要望も当然ながらあったんですよね。 さいとう:うーん、どうしようだったみたいだよねぇ…。4人も変わったの、担当さんが。…いろいろな事情で仕方なかったんだけど。その度に各担当さんは『ウテナ』を理解するのに苦労して悩んでいて。私は毎回『ウテナ』の説明しなくちゃいけなくて、すごい大変だったよね(笑)。 「ちゃお」はこういう方向だからって何度も説明受けて、「話変えませんか」という相談も受けたりもしたんだけど…あれが限界って感じですね。 ――ビーパパスと「ちゃお」の合意点を見つけて、描かなくてはいけないわけですからね。 さいとう:そうですね。私が小学館で描いているということで、この企画の連載をするなら「ちゃお」がいいのでは? って話を持ち込んじゃったから。私が「ちゃお」的にやらなきゃいけない立場だったんだけど。もう、ほんとに「ちゃお」の編集部には申し訳なかったんだけど、私はビーパパス側についてしまったのね。 幾原さんが企画を私に持ってきて、それを私が「ちゃお」持っていったという形のものだし。私はどうしてもアニメの方を大事にしたかったから「ちゃお」の言うことが、あんまり聞けない感じになっていた。 いつも思っていたことは、基本的に私は『ウテナ』の企画に後から参加させていただいて、自分のまんがというよりは、あくまでもアニメをフォローをする立場に立てればいいなという…。 「補佐役って感じで動くから」って『ウテナ』にはいつも思っているんですよね。 (1999年4月5日 国分寺にて) |
風山十五インタビュー
|
- 2008/03/14(Fri) -
|
風山十五 (TVシリーズ:第19話 脚本 ・ 第9話 演出 ・ 第9、19、25、30、37話 絵コンテ
劇場版:Aパート 絵コンテ担当) 美術出版社 「Art of UTENA」より ――風山さんがコンテを書いたのは9話が最初なんですよね。割と遅いスタートですか? 風山:そうですね。コンテで参加したのは僕が最後だと思うんですよ。だから緊張しました。当時上がってた5話のコンテとか見てね、「なんだこれは、こんなすごいことをやらなきゃいけないのか?」ってその場で帰りたくなって(笑)。 ――9話の「永遠があるという城」をはじめ西園寺のエピソードが多いですね。 風山:そうですね。でもまあ、僕はキャラクターに自分を重ねるのは下手なんですよ。一歩引いて見てしまうというか……。でも共感はできる……というより好きなキャラという感じかな、西園寺に関しては。彼は、人に対する感情に裏表がないですよね。 他の人達はそうじゃなくて、本当はどう思ってるかがわからない。口で言ってる言葉はまるで舞台の上で喋ってるセリフのようじゃないですか。でも西園寺は違う。感情移入できると思うんですよ。欲しいものが欲しいと言える。あまりカッコいいことではないんですけどね。子供のやることですよ。 樹璃や幹、冬芽の抱えている悩みって、普通の人が持ってるものと違うタイプでしょう。子供の頃からのトラウマだったり、同性に対する感情だったり、それ自体は普通の事かもしれないけれどその深度が異様に深い。でも西園寺のものは普通の人の悩みに近い。僕も本当に普通の人間ですから。彼は『ウテナ』の世界観の中では実に人間っぽいんですよ。 劇場版でも僕の担当はAパートですけど、西園寺が出てきますよね。それも采配があったのかなって。錦織さんが「七実がかわいい」とか、橋本さんが「樹璃は俺だ」というように僕は「西園寺が好きだ」という感じですね。 ――なるほど。あと、風山さんは19話「今は亡き王国の歌」で脚本も書いていますが。 風山:ええ。でもあれはちょっと、こういうパターンではできないな、と思った経験でしたね。シナリオがコンテみたいになってるんですよ。コンテでやるようなことをシナリオで書いちゃったものだから、積み重ねが非常に難しくて。普通だと第三者がシナリオを書いたり、各スタッフがいろんな要素を持ち寄って、そこに積み重ねることで生まれる世界があるんだけど、シナリオとコンテの両方を書いてしまうと、その工程が一つなくなるんです。それが僕的には辛かった。 ――普通は脚本からコンテの段階で飛躍があったり、批判があったりするという。 風山:でも僕的にはそれって大事なことの一つなんじゃないかなって思うんですよ。そりゃ行き過ぎちゃうとちょっと問題もありますが。自分で思いついたことを脚本にしていくと、そこでもう絵が想像できちゃうんですよね。 19話で唯一救われているのは、これはあくまでシナリオ、コンテでの話ですが20話との対であるということです。20話は月村さんと橋本さんの世界ですよね。その差があったから救われた気がします。 ――映像作家だと脚本も監督も撮影もやったりする人がいますよね。そういうタイプではないと。 風山:そうですね。個人の持ってる資質の違いでしょうね。僕は脚本を書くことが初めてだったんですが、「二度とやるか」と思いました(笑)。でもこの形にマッチする人もいるでしょうし、僕には合わなかったってことで。19話の敗因はそこではないかと(笑)。 ――19話はウテナとアンシーをめぐる本筋の物語から外れてますが、ギャグ話でもないという特殊な位置にありますね。 風山:すごくサイドストーリー的な話数なんです。若葉の話というのが大前提で。で、若葉自体は特殊な女の子ではなく、学園で起こっている奇妙な物語の外にいるキャラじゃないですか。その生徒がウテナを通じて非日常的な学園生活を垣間みるという話なんです。 で、風見達也君も学園の摩訶不思議な世界の外にいる存在、そして彼も若葉を通じて学園の世界に入って来る。でも若葉や風見君はその世界の人間にはなりきれないんです。彼は生活していく上で、何ひとつ不自由ない普通の男の子なんですよね。日常世界にいる普通の人間。それは僕もそうだと思います。風見君に共感できましたから。 だからそういう生き方をしててはいけないと言ってるのではなく、『ウテナ』の世界の中にもそういう生き方をしている人もいるという気持ちで作りました。 ――ラストで20話につながりますが、20話では若葉がデュエリストになりますよね。19話で風見君が御影に追い出される部分とも対照的だなと思いました。 風山:19話っていうのはかなりロマンチックなんですよ。20話もある意味ロマンチックで泣ける話ですが、表現の仕方が違っていて、そこが僕と橋本さんの違いなんですよね、きっと……。 ――そのロマンチックな作風が風山さんの持ち味だと思うんですが、いかがでしょう。 風山:そうですね……話数の振り分けに、ある程度采配があったと思います。決闘シーンが出てくる話数は1回しかやってないですし、19話や30話は僕向きということで振られたのかな、と感じてました。19話なんて「これでいいのか?」と思いましたからね。物語の流れがいつもの『ウテナ』と違って、かなりロマンチックなんです。もう少女漫画のような。だから違和感を感じつつやってましたよ。 ――30話「裸足の少女」に関してはいかがですか? 風山:30話もまた異質でロマンチックな話。30話はに関しては、さいとうちほ先生が描いた原作のムードを体現したつもりなんです。外れてたらごめんなさい(笑)。 僕自身はあまり少女漫画を読んだことがないんですが、さいとう先生の作品を読んで感じたのはキャラクターがすごく色っぽいということ。とても艶があるんですよ。だから「こういうムードが出せたらなあ」と思ってやってました。 さいとう先生が描く『ウテナ』のポスターなんか見るとね、やっぱり色っぽいんですよ。ゾクッときます。 ――19話とムードを変えた部分はそのあたりという。 風山:ええ。かなり大人っぽいムードをイメージしました。もともと暁生は19歳くらいの設定なんだけど全然そう見えないですよね。40代くらいかっていう(笑)。しかも中学生から婚約者の母親までという幅広いフィールドを持っていて、女の子はみんな自分の虜。うらやましい(笑)。 観てる人はそんなヤツいるわけないだろって思うかも知れないけど、いるんですよ。なにせ「王子様」ですから。「王子様」っていうのはそうでしょ?全ての女の子を魅了する。全ての女の子の憧れなんです。 ――なるほど。劇場版についてもお聞きしたいんですが、パート別に担当が分かれていましたよね。 風山:ええ。そういえばパンフレットにもA、B、C、D、Eパートと分けて記されてましたよね。パート別に分かれて不思議な統一感を感じていました。作っている人間のつながりというのがあって。人間が違っても到達できるところが共通しているという。そこは幾原さんのすごいところですよ。 で、僕がやったのは冒頭のAパートなんですが、見世物的な要素がすごく強いんです。 キャッチしなきゃいけないということを強く意識しました。観客をキャッチするための見世物的なハッタリ。美術にしても何にしてもそういう要素があって、劇場版はいろんな力の結集でしたね。それが幾原監督個人のフィルムに仕上がっているところが心憎い(笑)。 ――冒頭だから、キャラや舞台の紹介という意味合いもあるんですよね。 風山:物語の導入部としての「つかみ」っていうものをやる感じですね。他のパートは映画としてのテイストを求められるんだけど、僕のやったパートはTVでやったことを映画的にアレンジして見せるという性格が強かったです。 ――映画としてアレンジというのは具体的にはどういうことですか? 風山:世界観的なものはTVとさほど変わってないと思うんですよ。ただ描写としては、例えば鳳学園で言うと、もっと現実感のないものにしようと。ロケーションとかスケールについての情報が一切、設定の中にないんですよ。どこまで行っても鳳学園。じゃあ、どこにあるのかと言っても分からない。どんな高い所に昇っても外の世界が見えない。牢屋とか鳥かごという印象を強く意識しました。 TVの鳳学園はまだ日常生活っぽいんですよ。生活できそうな空間としての作りというか。学園生活を想像できるでしょ?でも劇場版では日常生活を描くのに必要な段取りを外してしまっている。とは言っても未来都市のような生活感のなさではなく、現実から逸脱している訳でもない、まさに管理された空間にしようとしたのかな…。 ――劇場版は、物語性よりは表現を突き詰めた感じでしょうか。 風山:それはかなりありますけどね。TVだと「分からない」と言われたら終わりという感じなんですが、劇場版はもっと過激にできる。で、僕が思うにもともと『ウテナ』っていうのは分かるか分からないかにこだわりはないと思うんですよ。僕も僕が分かってる範囲でしか分からないし、それが正しいのかも実は分からない。ただ共有できるところで作品を作っていく。 ――確かに、「もっと多くの人に、より共通の理解を得られるように」という意図で作られている作品とは違いますよね。ああいうのでは悪者は徹底的に悪の性質しか付けらなかったりしますが。 風山:『ウテナ』には一般的な道徳や人間性なんてものはないんですよ。そんなことは要求されなかったし、大体「世間一般としてこうだ」というような意見は巷に氾濫しているけど、それにどれくらいの意味があるのかっていうことなんです。良心とかね。それは大多数の言うことなら安心するという逃げ口上だったりもするのかなって。そういうものの外で成り立っているのが『ウテナ』なんじゃないかと。 100人のうち、99人が悪だと言えばそれは悪なのか、なんで後の1人は悪じゃないと思ったのか、それがさしたる理由じゃなくてもです。 ――『ウテナ』の中心キャラたちも道徳うんぬんを決して述べ立てないと……。 風山:『ウテナ』のキャラクターというのは不具なんですよ。で、その欠けているところを埋めようとする。でも一般人は自分は不具ではないと思ってますよね。僕もそう思ってます。僕は普通の人です。だから欠けたものを埋めたいという心を客観的に見られるのかもしれない。 で、欠けたところを埋めるためには力が必要だと。でも、そんな力は本当はないんだと思うんですよ。ただ、あると思ってる気持ちがどこかせつなかったり、悲しかったり、笑えたりするんじゃないか。世の中には欠落している部分も発見できないという人間が多くて、実際それでも生きていけてますよね。でも、「それじゃダメだ」と思う人間だけがデュエリストになれる。それを強烈に埋めたいという意志なんかが鳳学園のゲームを生み出しているんじゃないか。不可能かもしれないけど、手に入るんだったら闘うという人間だけがそのゲームに参加できるという。 ――なるほど。風山さんはそれを客観的に見ながら、絵コンテを切っていたという感じですか? 風山:僕はよく物事を一歩引いてる視点があると言われるんです。それは僕が、観客として見るという感覚を持って作ってるからだと思うんです。発信してるというより、自分が見ているという感覚の方が強い。誰かに対して作っているというより、自分で作って自分で見ている、そういう意識がいつもあるんです。 例えば橋本さんのフィルムとかって明らかに誰か特定の人間に発信しているような作り方ですよね(笑)。でもそこが彼の持ち味で、ストレートな部分が出ていて素晴らしいんですよ。『ウテナ』をやってて思ったのは、「すごい人が大勢いる」ってことです。この間、劇場版を見たときにすごく達成感があったんですよ。でもその達成感というのは≪たどりついた≫という意味じゃなくて、作品に最後まで関われて『ウテナ』という作品といっしょにゴールテープを切れたという満足感なのかも知れませんが。 |
「絶対表現至上主義 アニメ版ウテナのつくり方」 幾原邦彦インタビュー
|
- 2007/12/22(Sat) -
|
幾原邦彦 (監督) インタビュー
美術出版社「コミッカーズ」 98年6月号より ――『少女革命ウテナ』は放送終了後もファンの間でのショックはまだまだ大きく、インターネットの情報によりますと、螺旋階段を見ると興奮したり、高島屋デパートの格子状のエレベーターでイッてしまったりとさまざまな症状が報告されています。 幾原:アハハ(苦笑)。 ――ココでオレ的にぜひ原案&監督である幾原監督についに登場していただき、この際いろいろ語っていただきたい、と。 幾原:はい。 ――ストレートにお訊ねしまして、あの、監督にとってキャラクターとは何なのですか? 幾原:なんだろう。ツールとか、そういうことですかね。 ――なるほど。では監督にとってのツールとはいったい? 幾原:表現するためのものですよ。 ――つまり、キャラクターとは表現のための道具であると。 幾原:正確に言うと、ツールには二つあります。まず第一にキャラクターとは《よりよいビジネスを導き出すためのツール》であるということ。そして僕にとっては《表現をするためのツール》であるということ。その二つの目的が絶えず『ウテナ』というキャラクターを中心にぶつかりあってる。 でもそのおかげで最終的にどちらに比重を置くべきかって葛藤が僕の中に生まれる。もちろんスタッフの中にも。その二つの目的の中で絶えず、なんてのかな、キャラクターが翻弄され続けるんだけど、まあ、それも楽しかったよね(笑)。 ――ほほー、たとえばウテナをもっともっと《ベルサイユのばらのオスカル様》にすることも当然できたかもしれませんね。 幾原:ある意味で、そういうことをしたほうが《ビジネス》としてうまくいったかもしれないし、逆に大失敗したかもしれない。それはどっちとも言えないんだけど。 しかし僕の目的は、パロディーにして最大公約数的に認知させてやろうということではなくて、あくまで《表現》なんだよね。だって僕は企業家じゃなくてディレクターだから。でもそのキャラクターをどういうふうに視聴者に思わせたいかっていうと、それは単純にかっこいいヤツだと思わせたいという矛盾が……(笑)。まさか、かっこ悪いヤツとして認知してもらおうなんて企画が成立するはずないからね。 だからそういう意味では、やっぱり『ウテナ』は普通のキャラクターアニメとして成立したんだと思う。それが成功したのかどうかは今でも僕にもわからないけれど、僕には《表現する》ってことだけが快楽だとも言えるから。結局はディレクターだしね。たぶん、そのことを、《表現》に《快楽》が存在するということを、認知してほしかったと思うんだよ。『ウテナ』というキャラクターを通して。 ――なるほど。 幾原:キャラクターを商品としてかっこよく提供するということよりも《表現》という行為そのものがかっこいいことであるということを認知してもらいたいためにキャラクターをツールとして使った……そこにかける比重が大きくなってたんじゃないかな。 ――先生ッ、難しいですッ! 幾原:というかね、本当はキャラクターが完成したとこで僕の仕事は成立してたんだよ、たぶん。 ――仕事はもう終わってる? 幾原:それ以上そういうことをやり続けると、僕、いらなくなるじゃん、ということですよ。 ――よ、よくわかりませんッ! 幾原:たとえば以前『セーラームーン』の仕事をしたときは、あらかじめ武内直子さんによって作られた《素材》が先にあって、それを《演出》することによって自分のものにしていったんだけど、今回は違うんだよね。 ――はい。全然違いますね。 幾原:今回は最初から全部作っていったわけだから。そこで僕が企業家だったら、もっと割り切れるんですけどね。 ――何をですか? 幾原:だって企業家だったら、とにかく《表現》よりも《ビジネス》にしたほうがいいに決まってるじゃない。そういうことです。 ――でもほら、今回ビーパパスを作るためには企業家的な努力もされたんではないですか? 幾原:あれは会社じゃないから。 ――会社じゃないとすると、純粋なクリエーター集団なんだ! 幾原:そう。だから、僕には企業家の部分は…… ――ないんですね!ただ表現者としてのみ……。 幾原:いや、多少はある(笑)。そりゃあ、企業家の部分だってなければ、こういう取材だって絶対受けないもの。 ――そりゃ、そうですね。 幾原:だからやっぱり、絶えず《ビジネス》と《表現》という二つの価値がせめぎあってるんですよ。つまり、この場所、ビーパパス・スタジオもそういう場所なんです。絶えずその価値がせめぎあってる。だって、せめぎあいもなく、完全に《ビジネス》という価値だけを追求したいんなら、ここよりももっといい場所があるわけですよ。 ――確かに。 幾原:でも、それでもここに居たい!という人がいたり(笑)、あるいは僕がここに居続けるという理由は、もしかすると僕たちが存在する、表現行為をするということにも価値がありえるかもしれない、と思ってるからこそのことで……だからこそ、二つの価値がせめぎあう場所や作品でなくては意味がない。 ビーパパスはそんな成立しえないような価値の中で、かろうじて成立してる場所であるし、『ウテナ』もそういう作品なんですよ。 ――なるほど。 幾原:もちろん《ビジネス》としてもっとわかりやすいキャラクターの提示の仕方もあっただろうね。今回はそれをしないで、ちょっと肌触りの違う作品を作るってことを目指してみた。 当然のことながら、それは視聴者だけじゃなく、スタッフにもかなりのとまどいを与えたけど。でもまあ、そのとまどいの中でスタッフとガヤガヤやるのも嫌いじゃない。 ――一人でやるよりみんなで作ったほうがいい作品が生まれる? 幾原:たまたまアニメーションが大勢のスタッフで作るメディアだったから、そのことを楽しめるように自分を訓練したということもあったと思う。作業が楽しめないとダメだってことも、経験値でなんとなくわかってきたところがあった。 もっとワンマンでやろうと思えばやれたかもしれないんだけど、そうしたら思考がどんどんマイナーになっていってしまったんじゃないかな。仮にもし僕が全部一人でやったとしても、自分の中でのせめぎあいは絶対あったと思うし。 ――《ビジネス》としてキャラクターを考えたとすれば、ウテナのキャラ設定って難解なところがありますよね。その難しい部分が、監督の《表現》としてのこだわりなんですか? 幾原:そうとは言えないね。 ――じゃ、それも意図的な《ビジネス》の部分なんですか? 幾原:ていうか、《表現》ということの価値を突き詰めていくと、そうならざるをえないということ。例えば一見ビジネスを無視した表現でも、面白かったら売れてしまうでしょってとこまでたどりつくのが、本当の意味での《表現》の成功だと思うから。 ――コンセプチュアルなものより、純粋に楽しめる、ウケる作品のほうが優れた《表現》だと。 幾原:うん。でもそういう楽しみかたの訓練とか経験値は、視聴者全般にあまりないだろうけど。 ――せめぎあいの話で言えば、実はウテナよりアンシーのほうが、キャラクターとしてせめぎあってませんか? 幾原:えッ、そうなの? なんで? ――だってアンシーがもっと弱々しくて「あたしダメですぅー」みたいな子だったらキャラとしての人気はいっそう……。 幾原:型にハマるねー。ビジネスとして分かりやすい(笑)。 ――アニメファンがどんなキャラが好みとかは、これまでのアニメの歴史を振り返ればバレバレですから。意外と単純(笑)。 幾原:そもそもアニメが単純なものなんですよ。誰もものすごい複雑な描写や微妙な味わいを求めてアニメを観てるわけじゃない。 ――そうなんですか。 幾原:そうでしょう。シンプルだからこそ観たいだけ。だから、そのシンプル性を突き詰めると逆に浮き立つ《表現》もあると。 ――はい。 幾原:別に『サザエさん』が究極じゃないかなんて言ってるわけじゃなくて、シンプルだからこそ、浮き立ってわかりやすくなる部分があるっていうのかな。 たとえば、俳優を使って実写で『ウテナ』をやってもそれほど話題にはなりえないと思う。『ウテナ』はあくまでアニメーションという道具を使っているから、パラドックスな表現行為が一種の《快楽》としてひじょうにわかりやすくなっている。 アニメーションという作業は《単純化》であり、細かいものを切り捨てて情報を整理する表現なんだけど、イコール《象徴性》も高い。単純化したものとそうでないものとどっちがクルか、セクシュアリティーを感じるかだよね。僕はシンプルなほうがドキドキする。 ――監督の「シンプル・イズ・ザ・ベスト」的な表現は逆に知的な部分を刺激する……。 幾原:ただやっぱりこれって日本だけの特殊な現象ですね。アメリカはディズニーだから。たとえば海外だと本当に表現至上主義のアニメーションっていうのは、もうアンダーグラウンドに向かわざるをえないから。 それ以外の方法としては、もうディズニーとか最大公約数向けの作品、リアリズムしかない。だとすれば日本のアニメーションというのは、そうとう特異な場所にある。 ――たとえば、僕は今までアンシーの洋服のひだひだとか、肩についてるアクセサリーとかって全部監督の趣味だと思ってたんですけど、本当はあくまで『ウテナ』という作品をヒットさせるための計算というかコーディネートなんですか? 幾原:その趣味っていうのも、ときめきとかセクシュアリティーが僕の中で発生したからそうした……という観点で考えると、それはもう商売ですよ。ときめくんだから売れるだろうと(笑)。 ――女の子に男の格好をさせるのも売れるだろうと……。 幾原:当然です。もしそれがなかったら別に普通の格好でいいじゃない。《ビジネス》と《表現》でまったく分離はできない。どういう形でキャラを売るかってことも実は《表現》の一環だと居直らないと。 ――別々に見えて本当はつながっている部分もある……。 幾原:だろうね。 ――たとえば、ストーリー的に見ると近親相姦とか抗議が来そうなネタ、あったじゃないですか。あれは《表現》として作りたかったことでしょう? それともあれも《戦略》だったの? 幾原:……ごめん、戦略(笑)。 ――うひゃーッ、ホントに? 幾原:僕がそこんとこ間違えてどうすんの(笑)。ホントはこういうこと言っちゃいけないんだろうけど《アニメだからやってる》ことにすぎないよ。さっきから言ってるように(笑)。 ――アニメってシンプルに見えて実は複雑じゃないですかー。 幾原:いや、そういう近親相姦のようなネタをね、本気でやってもいいんですよ。だけど、それだけで価値になりえる時代はとっくに終わってると僕は思う。つまり、このコミケ時代にそんなものはもう当たり前だと。 ――しかし現実にはクライマックス・シーンでかなりショックを受けたり、最終回ではそれが単にセルの絵に声をアテただけという事実をすっかり忘れて涙を流してしまったという人がいる……でも、それは全部仕事としてのテクニックなんですか? 幾原:泣かせることは意識しましたね。アニメは見せ物だから。 ――『タイタニック』でもディカプリオが死ねば、世界中の女の子がどわーっと涙を流すと。 幾原:うん、あれも見せ物だから、ディカプリオは死ぬ(笑)。 ――じゃあ、監督が『ウテナ』で、ここはどうしてもやりたかった俺の表現だぜ! どんなもんだ! やっちまったよっていう場所というのはどこなんですか? 幾原:突出してどうこうというのはないですね。 ――んがんぐッ!ないッ? 幾原:《人と人との関係》については意識したかもしれない。わりと最初からね。そこが唯一とは思わないけど《ビジネス》と《表現》っていう自分のやりたいことのパワーバランスが、うまく噛み合ったところじゃないかな。 つまり、女の子同士のアレだね(笑)。……その美少女が二人いてレズ的な関係になるという(笑)。しかも一見普通のキャラクターアニメのふりをして、何とゴールデンタイムで堂々と放映してる(笑)。そういうことをやりたいと思う馬鹿は他にいないだろうと。けど、僕はそれを一番最初に、一発目にやるということが、ひじょうに重要だと思ったんで。 ――今後のアニメ界にもいろいろと影響を与えるでしょう。 幾原:もっと俗な言い方をしちゃうと、一番最初のものにしか価値はないんですよ。さっきも言ったけど、レズだとか何だとかいうものをもっと真剣にやってもいいんだけど、そういうこと自体はコミケでさんざん行われてきたことですよね。 それがホントに珍しかった時代っていうのはとっくに終わってるんだけど、最大公約数的なテレビアニメの中で、しかもキャラクターアニメとして、それを直球ど真ん中のストレートのゴールデンタイムの時間にやるということは面白いし、価値がある。 ――普通ビビリますよね。抗議も含めて世間の反応とか……。 幾原:それも踏まえてやってました。スキャンダラスな部分も面白いと(笑)。コミケでは全然珍しいことじゃない。ただしゴールデンタイムってことにおいてはひじょうに面白い。ようするに家庭のテレビに映った段階で、ほのぼのアニメと『ウテナ』とどっちを見るかって比較検討されるってことだから。 ――つまり『少女革命ウテナ』の最大のライバルは『サザエさん』系アニメだったと……(笑)。ミッキーじゃないけど僕もメモさせていただきます。 幾原:チャンネルを変えればオモテではあんなことをやってて、こっちではこんなことをやってる、と。 ――うはうはうはは(笑)。 幾原:そういうのは面白い。つまりスキャンダラスであることが、《ビジネス》として成立しながらも、僕の《表現者》としての《快楽》を満足させてくれたということ……パワーバランスがかみ合ってるっていうか。 二人の少女の性の関係性の話が、商業的にもクリエイティヴな面でも分かりやすい、だから作品として成立したっていうか。 ――《二人の人間の性と関係性の話》という幾原監督の狙いが、ビーパパススタッフの共同体全体に認知されるということも重要だと思うんですが……。 幾原:まあ、気楽にやっていきます(笑)。 |