「二人のウテナ」 小黒祐一郎
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- 2013/08/10(Sat) -
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DVD「少女革命ウテナ L'Apocalypse 5」ライナーノーツより
姫宮アンシーは『少女革命ウテナ』の企画の途中で生まれたキャラクターである。
企画の最初、ウテナは「どんな困難にもくじけない強さを持った人物」であり、それと同時に「快楽主義者で、色々な男性と愛し合い、それぞれの子供を産んでしまうような大陸的な大きさを持った女性」と考えられていた。 そんなウテナが男装の戦士となり、何人もの素敵な男性達と恋愛していくというのが、企画初期での『少女革命ウテナ』のイメージだった。 キャラクターデザインのさいとうちほ先生の作品にインスパイアされ、宝塚歌劇の世界を意識した内容だった。 「どんな困難にもくじけない強さ」と「快楽主義者であり……」の、二つの傾向がウテナに込められるはずだったが、幾原監督は企画作業の途中でそれを一人の人格にまとめることはできないと判断し、その結果、もう一人の主人公のアンシーが生まれる事になった。 二つの傾向の前者がウテナに、後者がアンシーに与えられたというわけだ。 アンシーが生まれるのと同時に、この企画を「この二人の少女の関係性」の物語にしたいと幾原監督は提案した。 自由奔放に色々な男性と恋愛し、関係してしまう女の子と、それを嫌だと思う女の子の、二人の関係を描きたいという事だった。 勿論、この段階では「薔薇の花嫁」の設定は、まだ考えられていなかった。 やがて企画は一段落して、物語作りが本格的に始まった。 実際の物語では、ウテナは「どんな困難にも負けない強さ」を持っているのかもしれないが、普段はそんな強さをあまり見せぬノンビリとしたキャラクターとなったし、アンシーは「薔薇の花嫁」となった。 「薔薇の花嫁」としてのアンシーは、最初に考えられていた「快楽主義者であり……」とは逆の存在なのだろうか。 いや実はそうではなく、同じ「女性」というものを違う角度から描いただけなのだろう。 「女性ならではの快楽主義者」がポジだとすると、そのネガが「薔薇の花嫁」なのだ。 「どんな困難にもくじけない強さ」と「快楽主義」。 最初は一人の人間に込められるはずだったこの二つの傾向は、『少女革命ウテナ』の物語の中で、そのままウテナとアンシーの対立となって残っている。 すなわち、「薔薇の花嫁」であり続けようとするアンシーと、それを否定しようとするウテナである。 スポンサーサイト
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「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル 最終回」 榎戸洋司
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- 2009/02/20(Fri) -
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「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル 最終回
“鳳暁生”の場合。あるいは王子様の欠落」 マガジン・マガジン「小説JUNE」 99年9月号より さて、いよいよ映画ウテナの公開日が近づいてきた。すでに劇場で予告を観たという方もいることだろう。今回はクライマックスについて触れる約束だった。 ウテナとアンシーが王子様と戦う。 二人の少女が、王子様システムを破壊する。その構図は、基本的に同じである。 王子様。 そう、この作品には、鳳暁生という“王子様”が登場する。 ところで“王子様”とはなんだろう? タイトルの『少女革命』とは、少女が、少女を支配するものから、自由になる物語であることを示している。そしてこの作品の王子様とは、少女を支配する敵として設定してあるのだ。というか、王子様、という言葉こそ、少女がとらわれやすい最大の罠ではないかと考えたのだ。 作中の暁生には、具体的に何処かの国の王子という設定があるわけではない。出自や身分は(おそらくは)平民だ。しかし、だからこそ、王子様と名乗り、呼ばれていることに意味がある。最近、世間でよく使われる王子様という言葉に近い。 では、僕たちはどのような王子様像を暁生にもたせたのか? 鳳暁生は鳳学園・大学部に籍を置く学生である。鳳の姓は、代々学園の理事をつとめている鳳家に養子に入って手にしたものだ。容姿端麗、ひとあたりのいい性格と自然に備わった気品、そして恵まれた才能。 理事長は彼という才能にすっかり籠絡され、一人娘である香苗の将来の婿にと望む。理事長は暁生という美しい青年の危険を最後まで見抜けなかった。長年にわたって理事長職に安穏とおさまり、博愛の理想という美辞麗句を本気で学生に説いていたような彼には、自分には想像もできない邪悪と欲望を孕んだ暁生の毒牙が理解できなかった。 もともと父親を崇拝していたお嬢さま育ちの香苗が、その父から与えられた婚約者に心酔するのに、さして時間はかからなかった。彼女はすぐに身も心も暁生のとりこになった。 そして理事長の妻、つまり暁生の義母にあたる原夫人は、そのときすでに暁生と肉体関係にあった。性的奴隷と化していた彼女は、夫の食事に、暁生から指示された毒物を混ぜてすらいたのだ。 香苗は、もちろんそんな暁生と自分の母親の関係は知らずに、病に倒れた父親を気づかっていた。やがて暁生は理事長から代行役を頼まれ、学園支配を確実なものにしていく……。 と、書き綴ってみると、これはこれで危険な男性像として、ひとつの王子様でありえたと思える。ピカレスクなキャラクターとして成立しただろう。 だが、暁生は、そうした危険な王子様ですらなかった。 香苗やその母親と関係するのはいいとして(いいのか?)、ひとつだけ決定的な弱みをもっているからだ。 それは実の妹、アンシーと、夜ごとに禁じられた関係を続けていることだ。 この一点において、暁生は、本物の王子様ではなくなる。もちろん、世間で言うところの王子様、という意味でだ。王子様ではなく、王子様を演じているやつ、になってしまう。 甘える妹とは母親の代替品でしかないからだ。そしてその弱点は、今回の映画では決定的に協調されている。 もちろん、僕たちスタッフは王子様を否定したいわけではない。結果的には王子様へのかかわり方を問うような作品になってしまったが、そんなものは、そもそものモチベーションではなかった。最初は快楽を描こうとしたのだ、素直に。ただ今日的な快楽とはなにかを考えているうちに、暁生のような王子様像になってしまった。まさに“結果的”にだ。 なぜだろう。 あたりまえの価値、とされているものに、つい苛立ってしまったのかもしれない。 カッコイイ王子様が現れて、主人公の女の子が結ばれて幸せになる。 そこに説得力がない、と思ってしまった。 だって、王子様の条件って、みんな楽そうなんだもん。(もちろん依存の快楽は大きい。生後数年間を母体の外で依存して育ててもらわなければ生きてられない生物に与えられた、それは大いなる課題だ) そしてまさにその“楽そうな依存”をセールスポイントにして、人を支配しようとしたのが暁生である。 だからこそ対するウテナは、とにかく潔くカッコいいのだ。 その魅力は“本気”ってことかなあ。王子様やお姫様って言葉の快楽には、なにか“本気さ”が欠落しているように思えるんだけど……そう、今いちばん必要なのは、本気ってことじゃないでしょうか? ここしばらく周囲に見る不幸の多くは、その本気であることの欠如に根ざしているような気がするのです。 憎しみとかですら、本気でないように思える。 (ま、どこまで自分が本気であるのかなんて、僕にもあまり自信がないけど) 本気であること、というのは、とにかく疲れるし、めんどくさいし、なによりリスクが大きい。エネルギーが必要だ。 けれど、だからこそ本気であることの価値が問われているのではないか、そしてみんながいま求めているのはまさにそういうことではないのか、とか思って描いています。 とりあえず本気で恋愛する人は、王子様なんて求めないんじゃないでしょうか。 ☞ 「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル ① “桐生冬芽”の場合。あるいは映画で青春を描くということ。」 ☞ 「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル ② “有栖川樹璃”の場合。あるいは革命の起こらない王国」 |
「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル 2」 榎戸洋司
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- 2009/02/20(Fri) -
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「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル ②
“有栖川樹璃”の場合。あるいは革命の起こらない王国」 マガジン・マガジン「小説JUNE」 99年8月号より 『少女革命ウテナ』は、デュエリストと呼ばれる少年少女の物語だ。 彼らは豊かな才能と美しい容貌を合わせ持つ選民であり模範生グループだが、自分一人で世界と対立していることがその条件である。前にも言ったように、疎外されていることへの自覚が重要な要素なのだ。 だが真の潔さを浮き彫りにして描くためにも、彼らはみな一点だけ、執着している未分化な関係が設定されている。心にひとつ大きな弱点を持っている。 その執着は多くの場合、“恋”として描かれる。 あなたが好き。あの人が好き。だって好きだから。どうしようもなく好き……。 純粋な恋は、愚かでありながらも、やはり美しい感情だ。 美しいものを描きたいと思っている。 描けるかどうかは別問題として (いや、ホントは全然別問題じゃないんだけど) 描きたいと思っている。 美しいものを生み出すのは世界を豊かにする。人を幸せにする。気持ちよくする。 だから、幻でもいいから、美しいものを描きたい。 幻でもいいから、美しいものを見たい。 あたりまえじゃん。 おっと、この原稿は映画『少女革命ウテナ・アドゥレセンス黙示録』の紹介が趣旨なのだった。 すぐに忘れる(笑)。 有栖川樹璃というデュエリストの少女がいる。 フェンシング部のキャプテンで、華やかな容姿の内側には凶暴な雌豹が潜んでいる。 登場人物の中でももっとも孤高なキャラクターだ。 だが彼女は、幼なじみの同性に恋をしている。 高槻枝織という同級生の少女を想ってる。 TVシリーズ放映中は、どうしてあの“樹璃様”が“枝織なんか”を好きになるのかわからない、とファンの方にはよくいわれた。執着する理由がわからない、と。 僕にも、本当のところはよくわからない。早く枝織なんかに見切りをつけて、別の恋を見つければいいのにとも思う。 でもそれは、樹璃にとっては余計なお世話なんだろう。 樹璃が枝織を好きになる具体的なエピソードや裏設定は、とくにない。 今回の映画でも描かれない。 彼女の性的な嗜好もあまり重要なことではない。 問題は、枝織が、樹璃の宇宙でどう捉えられているかということだ。 客観的な利害関係を越えた樹璃だけの価値観。 もちろん、それは思い込みでしかない。 だが恋愛に限らず、ほとんどの人間関係における感情は、思い込みでしかない。 そして、だからこそ、思い込みは大事だ。(いやほんとに) 他人の思い込みを制御できれば、その相手を支配さえできる。 自分の思い込みを自由にコントロールできれば、人生楽勝って感じである。 花が美しいのは、花それ自体が美しいのではなく、花が美しいと思うあなた自身の心が美しいのだ、みたいなことを誰かが言っている。 まったくその通りである。 幼い頃に見て感動した映画を、大きくなってから見直すと、子供騙しであったと気付くことはある。 しかし、心の中に美しさを残してくれたそれらは、嘘ではない。美しいイメージを喚起させてくれたそれらは、むしろ愛しい。実体を知ってなおときめく。 恋というのも、つまりそういうものではないだろうか。 やはり思い込みにすぎない。 だが、それを笑うことは誰にもできないはずだ。 あの時、あの場所であまりにも愚かだった恋を、しかし僕は誰にも笑われたくはない。 枝織は樹璃の思い込みを利用する。 樹璃を恋愛の対象とは思っていないが、自分の利益のためにそれをオプションとして使おうとする。 だが樹璃は、そんな枝織の本性を知らないわけではない。 知った上でなお、彼女への想いを断ち切ることができないのだ。 だが枝織は“樹璃ごとき”、いや“恋愛ごとき”で苦悩する自分の姿こそが魅力的であることにはまったく無自覚である。 だからこそ魅力的だ。 状況に縛られた若者は美しい。 枝織が樹璃の想いにこたえることはない。 今回の映画における最大の闇である高槻枝織は、けして革命の起こらない王国である。 もしかしたら樹璃が彼女にひかれるのは、その闇ゆえなのかもなあ……。 けれど革命を待つ王国はある。 次回は(たぶん)そのクライマックスについて。 ☞ 「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル ① “桐生冬芽”の場合。あるいは映画で青春を描くということ。」 ☞ 「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル 最終回 “鳳暁生”の場合。あるいは王子様の欠落」 |
「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル 1」 榎戸洋司
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- 2009/02/20(Fri) -
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「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル ①
“桐生冬芽”の場合。あるいは映画で青春を描くということ。」 マガジン・マガジン「小説JUNE」 99年7月号より いま『少女革命ウテナ・アドゥレセンス黙示録』というアニメーション映画を作っている。 ベースになっているのは同タイトルのTVシリーズで、脚本家の僕は、一応、作業を終えて、完成を待ったりしてるわけだが…… 先日、別のインタヴューで、アドゥレセンス黙示録が青春映画だと言うと、それはつまり青春について考える映画なのか、と訊かれた。 少し考えてから、僕は、そうではなく、これは青春的な価値観によって作られている映画だ、と答えた。 そう、この映画は、青春を描く。 僕たちスタッフは、今回の映画で青春を描こうとしている。 だがどうしてそんなものを描こうとするのだろう。 答えたあと、僕は一人でその理由について考察してみた。 思い返しても、青春なんてそんなに楽しいものではなかった。傷つかない場所へ必死に逃げようとしても痛々しいコミュニケーションとなってしまうのが青春だ。それはただ精神的生傷がたえないだけの季節だった。 経験値の低い不安と期待を抱え、いつもなにかに動揺しているだけの毎日だった。 でもなつかしく思ってしまう。 わざわざ映画になんかにしたくなってしまう。 やはりそこには、他にない快楽があるのだろう。 では他にない、どのような快楽が青春にはあるのだろうか? 「若い頃はなんにでも体当たりでぶつかれ」なんて言葉を聞くととても腹が立った。 それはすでに安全圏にいる大人のセリフだからだ。 そして僕自身、きっといまはかなりの精神的安全圏にいる。 (本当はぜんぜん安全じゃないのかもしれないが、安全であるかのように自分を偽るくらいの技は覚えたらしい) だが、本当の意味での精神的安全圏に逃げ込んでしまったら、失ってしまうなにかが、やはりある。 だからきっと青春を描くことに価値があると思っているのだろう。 映画では、桐生冬芽という少年が物語上の重要なキャラクターの一人となる。 TVシリーズでも冬芽の少年時代には少し触れたが、今回はもう一歩踏み込んだ過去の一端が描かれる。 これまで直接描かなかった冬芽の傷。 少年の頃の彼は、友達である西園寺莢一や、妹の七実と、楽しい時を過ごす普通の子供だった。だが、両親に髪を長く伸ばすように命じられた頃から、自らの不幸な宿命を知ることになる。 両親は、冬芽を桐生家に売り飛ばしたのだ。もちろん建て前は養子だが、勘のいい冬芽はその意味をすぐに理解した。そして、妹を守るためにも、冬芽はそれを受け入れた。 売られた自分。実の息子を売ってまで冬芽の両親がなにを手に入れようとしたのかは、あえて描かない。それはまあひとつのメタファーと思ってほしい。そして冬芽は、新しい親が与える性的な虐待を黙って受け入れた。それを楽しんでみせるくらいの彼の器量が、人格の分裂を辛うじて防ぐが、当然、少年は変わった。 その変化はあまりにも内面の深い場所でおこったので、周囲の者は気付かなかった。西園寺や七実はその無邪気さゆえに気付けなかった。冬芽も自分の秘密を誰にも語らなかった。 人は失った分だけ、なにかを得るという。 ではそのとき、少年冬芽の得たものはなにか? 夜ごと弄ばれる冬芽が、昼間、無邪気な友達や妹を見て思うこと。 それは疎外感、である。 疎外されている自分。疎外されていく自分。 青春とは、自らが疎外されていく過程のことでもある。 (だが、本当は、疎外されていくのではなく、“もともと疎外されている自分に気付く”過程のことだ) そして自らの疎外により自覚的なものこそ、より高い人間性と、自覚的なセクシャリティを獲得していくのだ。 TVの劇中、西園寺はいつも冬芽に一歩遅れていると感じていた。 才能ではおそらく互角だろうが、彼に足りなかったのは、まさにその疎外感である。 ウテナは、見ていて痛々しい、という感想をよくいただく。 それでいい。 きっと僕たちは痛々しい関係を描きたかったのだから。 それは、いま失いつつある“なにか”を、失うまいとする行為なのだろう。 年を重ねると、安全圏だけは確保できるかもしれない。そして共同体や友人との信頼は大切なものだ。 だがそれで、本質的な疎外感まで見失ってはいけない。 疎外感を覚えていてこそ、他者との関係の価値もあるのだから。 そんな想いから、きっと青春を描きたいんじゃないのかな、とか思うのです。 ☞ 「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル ② “有栖川樹璃”の場合。あるいは革命の起こらない王国」 ☞ 「『少女革命ウテナ』 プライヴァシー・ファイル 最終回 “鳳暁生”の場合。あるいは王子様の欠落」 |
「物語と表現」 小黒祐一郎
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- 2007/12/20(Thu) -
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DVD「少女革命ウテナ L'Apocalypse 4」ライナーノーツより
『新世紀エヴァンゲリオン』や『機動戦艦ナデシコ』等のヒット作を手がけている大月俊倫プロデューサーは、やる気のあるスタッフには、作品内容に関してあまり細かい注文は出さない。幾原監督以下のスタッフが、『少女革命ウテナ』を好きなように作る事ができたのは、大月プロデューサーのおかげである。 その大月プロデューサーが『ウテナ』に出した数少ない注文のひとつが、「話を8話くらいずつで一区切りにしてくれ」というものだった。理由は、今のファンは飽きやすいから、だった。 キッチリ8話で一区切りというわけにはいかなかったが、『ウテナ』は、ほぼ8話ずつの4部構成となった。すなわち、第1話~第12話の「生徒会編」、第14話~第23話の「黒薔薇編」、第25話~第32話の「鳳暁生編」、第34話~第39話の「黙示録編」。 第13話、第24話、第33話はシリーズ間のインターバルとなるエピソードである。 第2部「黒薔薇編」では、第1部に登場したサブキャラクターに再びスポットが当たり、よりテーマを深化させたかたちでドラマが描かれた。キャラクターの内面の問題を浮き彫りにするドラマが展開し、その内面の葛藤が告白昇降室でピークに達し、決闘に至るという物語のフォーマットは、テーマを語る上で大変に有効だった。そのフォーマットゆえに「黒薔薇編」では各エピソードで、脚本家、絵コンテマンの個性がより発揮される事になった。 ファンの方でも「黒薔薇編」が好きだと言ってくださる方は多い。 だが、幾原監督は放映中に「『黒薔薇編』はちょっと失敗だった」と語っていた。理由は、わかりやす過ぎる、まとまりすぎているから、という事だった。普通なら、わかりやすくて、まとまっているなら良いではないかと思うところだが、さすが監督は考える事が違う。 幾原監督は『少女革命ウテナ』で「表現自体の面白さ」を追求しようとしていた。「黒薔薇編」は、「物語」が「表現」に勝ってしまっているのが不満だったのだろう。次巻で収録される第22話「根室記念館」では、ある大胆な演出が行われている。これには「物語」と「表現」のバランスを修正しようという意図もあったようだ。 また、「黒薔薇編」での反動もあり、第3部「鳳暁生編」、第4部「黙示録編」では、「表現」の力が、かなりパワーアップする事になる。 |
「薔薇の刻印」 榎戸洋司
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- 2007/07/28(Sat) -
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徳間書店「アニメージュ」 97年12月号より
――おもちゃと同じだよね。“やがていらなくなる為に”、それは必要なんだ。
天上ウテナの指を飾る薔薇の刻印は、彼女にとっての“王子様”を両義的なものにしている。 王子様に近づく、という動機は、その言葉の曖昧さそのままに、恋愛対象としての“彼”に接近する行為と、自身が王子様になろうとすることを混同させているのだ。 崇拝対象への模倣。形から目指すことが人の本質である。 この“少女によるミメシス”は、王子様というイデアを浮き彫りにするための仕掛けだ。(いきなりまたコムツカシイことを言いはじめちまったい……はい、少々飲んでます。いや、昨日、最終話のシナリオを書き終えたばかりなもんで) 「いいよな、脚本家は」と幾原。「先に終わって。俺なんか『燃えよドラゴン』のリバイバルも観にいけなかったのに」 「これから遊ぶんだね」とさいとう先生。「私は今月、締切りみっつも抱えてるのに」 「せめて差し入れ持ってスタジオに通ってください」と長谷川君。「あ、僕は日本酒ね」 うう、二年近い歳月を経て、ようやくシリーズすべてのシナリオができたのに、誰もごくろうさまと言ってくれない……。 「ごくろうさま」と小黒氏。「じゃ、手があいたのなら、アニメージュの原稿たのむね」 (え、しかも明日が締切りだあ?ガーン……というわけで、僕は今これを書かされて……あ、いやいや、書かせていただいております) 天上ウテナは少女漫画の主人公としては、むしろステロタイプなキャラクターである。 作品に現代性をもたせるために考えたキャラクターが姫宮アンシーだ。二人である理由は、ハーモニーを描くことを目的にしたから。 ハーモニー。複数存在による調和と効果。男性と男性。女性と女性。兄と妹。タブーと快楽。主題を彩る要素は多く、主人公二人の絆は、王子様の影を軸に、複雑にからみあう。 そして二人の絆は、ウテナの持つ薔薇の刻印に収束されていく。 いまだ語られざる、それは薔薇の物語。 第34話から、第4部「黙示録編」がはじまる。物語は、以後、最初から定められた終局の一点を目指して進んでいくことになる。 すなわち、少女革命。 第34話「薔薇の刻印」では、ウテナと王子様の出会いが描かれる。 詳細をここで話すことは控えるが、あの第9話での回想(教会のシーンね)の続きだ。 それはしかし、ウテナの中で、すでに失われた物語なのかもしれない。 けれど、薔薇の刻印は、今もウテナの指にある。なにかを見失ったとき、彼女を支える力になっている。 それはおもちゃではない。 ところで、革命とは、支配されている者が、その支配のシステムを破壊することである。 少女革命とは、だから少女が、少女を支配するものから自由になる物語だ。 作中における“王子様”は、実は、少女を支配するものとして設定されている。 王子様、というのは、女の子がお姫様になるために必要な装置である。 それは関係性の儀式でしかない。 けれど女の子が女の子であることも、実は儀式でしかないのだ。 最後の決闘の末に、ウテナは“世界の果て”になにを見出すのか。 願わくば、そこに永遠が、輝くものが、奇跡の力がありますように。 そしてまた原稿の依頼は締切り直前ではなく、もう少し早めでありますように。 とにかく、僕は今夜はもう眠い。 絶対運命黙示録。 おやすみなさい。 |
「『世界』に挑む物語」 小黒祐一郎
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- 2007/06/07(Thu) -
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LD「少女革命ウテナ L'Apocalypse 9」封入特典・解説書より
『少女革命ウテナ』は、幾原邦彦を中心にした原作者集団ビーパパスが企画・原作を担当した作品である。と書くといかにも偉そうだが、実際にはそんなに格好のいいものではなかった。試行錯誤の連続だった。
私が、幾原君に「自分達の原作でアニメを作りたいから手伝ってくれないか」と声をかけられたのが1994年。当時の幾原君はあるアニメ制作会社のディレクターであり、私はアニメ雑誌で仕事をするフリーライターだった。幾原君としては、今までは会社から与えられた原作、企画でアニメを作ってきたが、今度は一から自分で作りたいという気持ちだったのだろう。それは、会社からの独立も意味していた。 私も、幾原君の仕事には興味があったし、自分の企画というのも面白いと思って参加させてもらうことにした。 自分達の原作でアニメを。それも、なるべくならテレビアニメを。勿論、成功させたかったし、真面目にやるつもりだったが、始めた時には、それは現実感のない、なかば夢物語だった。私は、プロジェクトが開始されてから自分達がしょい込むことになる責任等は、まるで考えてもいなかった。 私が最初に打ち合わせに参加したのは、1995年の元旦であった。 場所は都内のファミリーレストラン。その時のメンバーは幾原君と榎戸洋司さんと私。その段階で幾原君が提出した企画は『胸生女王竜UTENA』というタイトルだった。 具体的なストーリー等は提示されなかったが、主人公の女の子の名前がウテナで、その胸にメタリックな竜の頭がついていて、戦闘時に、その竜の頭部が伸び出てくる、というシチュエーションをやりたいと幾原君は主張した。 なんだか、わけがわからないなあと思いつつ、それはヒロイックファンタジーのような、SFアクションものなのだろうと思い、サンプルストーリーのようなものを書いたりした。 私も幾原君も、榎戸さんも、何をどうすればよいのかわからなかった。まずは、スタートさせてみたという感じだった。 最初に幾原君が根本のアイデアや、全体の方向性を示し、それを榎戸さんや私が肉づけしたり、アイデアを足したり、文章にしたりというかたちは、その後も変わらず、企画は進められることになる。 その後、企画は二転三転。最初に企画書らしい企画書にまとまったのは、OVAを狙ったスーパーヒロインものだった。これは幾原君と榎戸さんのアイデアを、最終的に私がまとめた。 この企画書でも、ヒロインの名前はウテナ。敵の名前は「世界の果て」。ウテナの恋人の名は鳳になっていた。 ただ、主人公はそれとは別にいた。ヒロインのウテナは高校生だが、何故か学園の片隅にある保育園で子供達の面倒を見ていて、実はスーパーヒロイン。「世界の果て」という名前のわけのわからないものが、毎回、保育園を襲い、変身してそれと戦う。 主人公は、やたら権力のある生徒会の会長(そういえば、すでにこの時にそういうキャラがいたのだ)に「お前のようなやつは、保育園からやり直してこい」と言われて、本当に保育園に行ってしまった男子生徒。彼は、自分と同じ年の保母さんであるウテナに恋するが、他の園児達と同じように扱われてしまう。 やがて、その保育園の子供達が、全てウテナが生んだ子であり、ウテナを妊娠させたのが鳳という男だということがわかる。ウテナは、鳳こそが、この世の究極の男性だと思っているが、実は鳳という人間は最初からいないらしいこともわかっていく。そして、最終回でいないはずの鳳が学園にやってくるらしいということになり……というもの。 今、文章にすると笑ってしまうような内容だが、勿論、これはこれで当時、一生懸命に考えた企画だった。OVAの企画なのだから、コアターゲットを考えた内容の方が、メーカーを説得しやすいと考えたのだ。 そして、正直に言うと、私自身は、バカバカしいけれど「世界の果て」等という象徴的な存在が出てきたり、どこか寓話的だったりする、この企画のバランスが好きだった、 ウテナも、「世界の果て」も、幾原君がこだわったネーミングである。実は、私が参加するよりずっと以前から、幾原君と榎戸さんはいくつかのアニメの企画書を書いており、その時からヒロインの名はウテナだったのだそうだ。 「世界の果て」は絶望の意味であり、あるいは可能性がない閉塞した状況や人のことであったようだ。企画をやっていた頃、幾原君は、よく「世界の果てを見た」とか、「くそう、世界の果てだ」等と口にしていた。また、幾原君は、ウテナはくじけない少女で、彼女が「世界」に挑む物語だ、と語っていた。 このスーパーヒロインものの企画書ができた直後に、幾原君が「男装の麗人もの」にしたいと言い出した。「宝塚歌劇的」というのもここから始まっている。その直後に、幾原君は、さいとうちほ先生のマンガと出逢い、その絵の魅力と主人公の生き方に惹かれ、この作家にキャラクター原案を頼みたいと言い出した。 企画は180度の方向転換をしていった。コアターゲットではなく、ポピュラーターゲットへ。幾原君は、さいとう先生の存在に、ポピュラーな企画を現実味のあるものにするために必要な、手応えのある何かを感じたのだろう。 同年、春。さいとう先生にコンタクトをとり、キャラクター原案を依頼することができた。さいとう先生は、どこかの会社の後ろ盾もなく、キャラクターのデザインを頼みたいのですがと近づいてきたアカラサマに怪しい私達に、好意的に接してくれた。幸運な出逢いだった。 この段階では、企画は『少女革命ウテナKiss』というタイトルだった。 5月にさいとう先生のキャラクター原案が完成。この前後に原作企画チームの「ビーパパス」という名前も決定している。ネーミングは幾原君によるものである。自分達の状況にあった名前だなと思ったが、照れくさいなとも思った。 『少女革命ウテナKiss』は、まだ、企画は変身美少女ものの色が濃かった。つまり、子供を対象にした作品で、玩具メーカーがメインスポンサーにつき、変身アイテム等の玩具が発売されるようなテレビシリーズとして考えていた。 男装の美少女戦士軍団が「世界の果て」という悪者と戦うという話で、一応、この段階でも鳳学園という学園が舞台だった。主人公は誰かとキスをすることで変身するという設定だったため、タイトルにKissという言葉が入っている。この変身のアイデアも、幾原君から出たものだったが、さいとう先生も、このアイデアをかなり気に入ってくれたようだった。子供向けと思われるかもしれないが、これなら子供にも受けて、アニメファンも楽しんで観られる作品になるのではないか、というバランスの企画だった。今、思えば、私達は、この頃の方が「大人の仕事」というやつを、やろうとしていたのかもしれない。 上に掲載したイラストを見てもらってもわかるように『少女革命ウテナKiss』では、主人公のウテナはショートヘアで、現在よりも凛々しい顔をしている。また、後の樹璃にあたるキャラクターが、この段階ですでにいる。名前も有栖川樹璃であり、現在とほとんど変わっていない。しかも、この段階でも、すでに想い人の写真をペンダントにいれているが、その写真は誰にも見せない、等の設定がある。何故か、彼女のキャラクターのみ、ほぼそのまま残ることになったのである。 この時点で「世界を革命する」という言葉は、もう企画書の中に登場している。すでに「世界」に挑み、「世界の果て」と戦い、「世界を革命する」物語だったわけだ。 同年、夏。出来上がった企画書を持って、私と幾原君はいくつかのビデオ会社や玩具メーカーへ持って行った。 スポンサー探しはなかなか上手くいかず、苦労した。寒い夏だった。私が『ウテナ』でいちばん苦労したのが、この時期だったと思う。ありがちな「うまくはいかなかったが、オレ達は頑張ったよな」等と、後で慰め合うようなことだけはやめようと、よく幾原君と話した。あるいは「(企画を通すための)手段は選ぶな」とも。 やがて、業界の右も左もわからずにウロウロしていた私達の前に、キングレコードの大月俊倫プロデューサーが現れた。 大月さんは、企画書をパラパラと見て、わずか数秒後に「いいじゃないの、これ。うちが力貸すよ」と言ってくれた。それは英断だった。何故なら、その時、大月さんも、まだ、『エヴァンゲリオン』の準備中だったからであり、ビデオメーカーがテレビのスポンサーになることは、まだまだ珍しいことだったからだ。後に、大月さんは企画の内容ではなく、幾原君にやる気を感じ、のる気になったのだと語ってくれた。 大月さんとの出逢いで、企画は一気に現実味を増した。 また、キスによる変身はやめることとなった。大月さんの提案で、ヒロインの髪はロングになった。少女物ではロングヘアーにしないと、視聴者である少女たちに与える「快楽」をそこなうからとのことだった。確かに、キング以外のスポンサーも、まだ企画に巻き込む必要があったのでそうした。そのほうが、企画に説得力があるように思えた。 そこで『少女革命ウテナKiss』の段階では、脇役であった(あまり男装の麗人らしくない)長髪のカワイコちゃんタイプの少女、蘭のルックスを主人公に使うことになった。それは、最初の企画書を見せた時に、大月さんが彼女を指して「このコがいいね。ボクは、このコが好きだな」と言ったことも理由のひとつになってる。 大月さんからは、8~10話分で話が1ブロックになるようにしてほしいという要望もでた。 企画の練り直しがはじまった。 季節はすでに秋になっていた。タイトルは『少女革命ウテナ』になり、小学館でのマンガ連載も決まっていた。 この秋から冬にかけて、何度も打ち合わせが行われ、様々なアイデアが出された。作品に直接関係ないような話も多かった。電話でのやりとりは毎日あった。物語や設定のことを考えるよりも、相手の考え方を知ったり、互いの距離をはかったりしていたのかもしれない。濃密な日々だった。 幾原君が主人公にガクランを着せるというアイデアを出した。これは、さいとう先生が『少女革命ウテナKiss』の企画書用に書いたイラストの1枚、男装の主人公の普段着のイメージイラストが元になっている。この時には、ガクランの色はピンクになるはずだった。事実、さいとう先生のマンガ版の前半では、ウテナはピンクのガクランを着ている。 また、幾原君は、ウテナと別にもう一人のヒロインを出して「2人の女の子の関係性」の話にしたいと言い出した。こうしてアンシーが生まれた。 アンシーの誕生は、幾原君が最初に主人公にこめようとした二つの個性を、どうしても、一人のキャラクターにまとめることができず、二つに割ってしまった結果であるらしい。 つまり、最初に考えられていたウテナは、現在のウテナとアンシーの両方の個性を持ったキャラクターだったわけだ。 決闘のアイデアは榎戸さんから出された。戦闘をやめて、デュエリスト同士の決闘にしようというのである。これは、さいとう先生がデュマの「三銃士」のファンであることから生まれたアイデアである。 この段階では、第1部はウテナがアンシーを守って戦うが、第2部にはアンシーも剣を持って戦うことになるというアイデアもあった。 『ウテナ』の企画は「引き算」と「足し算」で出来ている。 この頃は、いわゆる変身少女戦士もののパターンから、変身、必殺技、悪の組織等の、いかにもな要素を引き算する作業をしていた。その後、引き算しすぎたことに気がついて、慌てて足し算をしたりもしたが。その結果、スタートラインは変身少女戦士もの的であった企画が、変身少女戦士ものとはいえぬ不思議なものになっていった。『少女革命ウテナ』が『少女革命ウテナ』になっていったのだ。 1995年の大晦日から、1996年の正月にかけて、都内のホテルに泊まり込んで最終的な打ち合わせが行われた。 この合宿に参加したのは、幾原君、榎戸さん、さいとう先生の3人。私は、この段階ですでに、内容に関しては3人に任せるつもりでいたので、合宿には参加しなかった。 この合宿では、幾原君の体調がよくなかったこともあり、榎戸さんと、さいとう先生が中心となり、打ち合わせが進められた。薔薇の花嫁や決闘の掟等、設定や物語のおおよそのかたちが決められ、キャラクターの配置も決められた。デュエリスト達のネーミングは、榎戸さんが決めた。 この頃すでに、スタッフルームとなるビーパパススタジオは設立されており、長谷川眞也君はキャラクターデザインの準備を始めている。 年明けに、最終版の企画書を作成した。 1996年の春には、アニメ第1話の脚本がおおむねかたちになり、アニメの実作業も開始された。 さいとう先生が『少女革命ウテナ』のプロローグにあたるマンガ「バラの刻印」を月刊「ちゃお」に発表。つづいて、『少女革命ウテナ』の連載を開始する。 アニメの制作とマンガの連載は、互いにリンクし、影響を与えながら進んでいった。幾原君がJ.A.シーザーの合唱曲を使いたいと言い出したのが、1996年の暮れ。ガクランを黒にしたいと言い出したのも同時期だった。 舞台的な画面作りを、J.A.シーザーの合唱曲を、影絵少女を……、幾原君は自分で作った企画を、自分で演出することによって、自分の作品にしていった。幾原君の持ち味が足し算されはじめたのだ。 そして、脚本の作業が進むうちに榎戸さんの個性がより反映され、各スタッフのアイデアが入れられ、作品は膨らんでいった。 そして、1997年の春にテレビ放映が開始。 第1話で、アンシーが胸から剣を出現したのを見た時に、私は思った。そうか、最初に幾原君が言っていた、女の子の胸から竜が出現するというのは、こういうビジュアルだったのか。 企画のかたちは二転三転したけれど、幾原君がやりたいことは元旦にファミレスで話した時から、あまり変わっていなかったのかもしれないな、と思った。 |
「萎れざる草の時」 月村了衛
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- 2007/05/24(Thu) -
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LD「少女革命ウテナ L'Apocalypse 6」封入特典・解説書より
日も射さぬ地下の墓所に黒い薔薇が咲いている。
草時は黒薔薇に語りかける。なにを?永遠。 『少女革命ウテナ』黒薔薇編においては、時として美剣士ウテナは傍観者でさえない。狂言回しでさえも。 彼女は劇中より徹底的に排除される、そのイノセンスゆえに。 終幕近く、決闘広場に予期せぬ敵を見いだして狼狽するのみである……なぜだ? 君がどうして? 彼女は事ここに到った過程などまるで知る由もない。 これは私見だが、『ウテナ』の世界で悪ならざる者はいない。 ただ一人天上ウテナを除いて。そしてウテナの『無垢』は、『無知』に由来する。 ウテナは知らない、親友の若葉が、何も知らぬ少女が、心に飼い夜毎募らせる悪意を。 噴出した憎悪は、彼女たちを根室記念館へと走らせる。 御影草時は闇の底で微笑みながらそれを待つ。 草時は知っている、人の心の闇の深さを。 だからこそ、純真なる少年の訪れを受けた時、彼は不快そうに突き放したのだろう……ここは君の来る所ではないと。 おのれの時を萎れぬ押し花へと変えたとき、置き去りにしてきたはずのなにかが、彼の中に凍ったまま残っている。 私にはそれが痛ましい。 今も、草時は地下の薔薇に語りかける……幻の黒薔薇に。 |
「花をめぐる決闘者」 小黒祐一郎
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- 2007/05/16(Wed) -
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DVD「少女革命ウテナ L'Apocalypse 3」ライナーノーツより
『少女革命ウテナ』の登場人物のネーミングには、一つの法則がある。デュエリストになるキャラクターの名前には、植物に関連した言葉が入れられているのだ。
桐生冬芽なら「芽」、西園寺莢一なら「莢」、有栖川樹璃は「樹」、薫幹は「幹」。サブキャラクターでも、薫梢のように後にデュエリストになる事が運命づけられている者の名には、必ず植物に関連した言葉が与えられている。 そのデュエリスト達が決闘をして、奪い合っているのが、薔薇の花嫁である姫宮アンシーだ。彼女の名の「アンシー」はギリシア語で「花が開く」という意味だ。今回収録したエピソード[※]で初登場した鳳暁生や千唾馬宮は、植物に関連した言葉を名に持っていない。つまり、彼達は初登場した時から、デュエリストにはならない事が運命づけられていたわけだ。勿論、それがイコール、剣を持って戦う可能性がないというわけではないが。 それでは、我らが主人公、天上ウテナの場合はどうか。 ウテナは漢字で「台」と書く。植物の萼(がく)のことである。つまり、花を下から支え、倒れないように守っているのがウテナなのだ。ウテナの名には「見晴らしのよい高い場所」という意味もある。こちらの意味については、また別の機会に語る事にしよう。 デュエリスト達は、いずれも植物に関連した言葉を名前に持つが、植物の中で最も美しい「花」を名前に持つ者はいない。芽、莢、樹、幹といった植物の器官が「花」に最も近いアンシーを奪い合い、決闘をするという構図である。そして、それを守るのがウテナなのだ。 しかし、アンシーにしても「花が開く」という変化を名にしているのであって、花そのものを名にしているわけではないのだが。 野にある花は、優雅に咲いているように見える。だが、花は種族を残すために咲くのであって、ただ美しさのために咲くわけではない。いや、その美しさや、香りすらも、様々な生存競争の果てに獲得した彼女達の武器なのである。花とは、その美しさとは裏腹に、厳しく哀しい存在なのかもしれない。それは人間の女性の美しさについても同じ事なのだろう。 美しい花には棘がある。花にも、女にも棘がある。 第2部「黒薔薇編」において、アンシーの棘がよりくっきりと見えはじめる。 (DVD「少女革命ウテナ L'Apocalypse 3」ライナーノーツより) ※DVD「少女革命ウテナ L'Apocalypse 3」の収録話は ・第11話「優雅に冷酷・その花を摘む者」 ・第12話「たぶん友情のために」 ・第13話「描かれる軌跡」 ・第14話「黒薔薇の少年たち」 ・第15話「その梢が指す風景」 の5本である。 |
「革命とビーパパス」 小黒祐一郎
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- 2007/05/15(Tue) -
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DVD「少女革命ウテナ L'Apocalypse 1」ライナーノーツより
『少女革命ウテナ』のオープニングでは「企画・原作 ビーパパス」とテロップされている。
ビーパパスは『美少女戦士セーラームーン』等の作品で知られる演出家の幾原邦彦が、自ら監督する作品のために結成したチームである。メンバーはマンガ家のさいとうちほ、脚本家の榎戸洋司、アニメーターの長谷川眞也、それと私、プランナーの小黒祐一郎。この4人も幾原邦彦が選んだメンバーである。 『少女革命ウテナ』では企画だけでなく、アニメーションの制作、宣伝等もビーパパスが中心となって進められた。 ビーパパスとは「大人になろう」という意味だ。 勿論、幾原邦彦本人のネーミングである。この名には、他人が用意してくれた環境で、決められたレールの上で作品を創るのではなく、自分達のやり方で、自分達の作品を創る事が出来る「大人」になりたいという気持ちが込められている。 企画立ち上げ時から、彼が中心になって進めてきただけあって『少女革命ウテナ』は、幾原邦彦の持ち味が色濃く反映されたシリーズとなった。限りなくシュールな影絵少女というキャラクター。画面の四隅で回転する薔薇の花。華麗かつシリアスな世界かと思わせておいて、突拍子もないギャグを入れるセンス。決闘時にかかる合唱曲は彼が敬愛する寺山修司の舞台で音楽を担当していたJ.A.シーザーの手によるものだ。 そして照れくさいほどに真剣で、純粋なテーマ。 『少女革命ウテナ』は「世界を革命する物語」であり、「大人と子供の物語」でもある。デュエリスト達は「世界を革命する力」を手に入れるために、「世界の果て」が決めた決闘の掟に従って決闘をする。本当は。他人が決めたルールに従っている限り、世界を革命する事などは出来ないのだが。何故なら、ルールもまた、今の世界の一部であるのだから。世界を革命したいのなら、まず、他人が決めたルールから外れるか、破壊するか、どちらかをしなくてはいけない。デュエリスト達は、それに気づかないのか。あるいはそれを分かっていて、あえて「世界の果てに」従っているのだろうか。いずれにしろ、彼等は、いつかは世界の殻を破らねばならない。 革命。世界を革命せよ。 革命のために、雛鳥は世界の殻を破る。 卵の殻を壊して雛鳥は大人になる。 つまり、ビーパパス。 |