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第1話「薔薇の花嫁」 ●
『星空とキネマの夕べ』が催されたのは、十代最後の夏だった。
そう、あれはたしか七夕の翌日だったと記憶している。
夏至を過ぎたばかりの遅い日没を待ってから、星空を天井に、校舎の壁面をスクリーンにして映画に興じる趣向だった。
おあつらえむきに“快星”に恵まれ、にわかキネマ化したキャンパスで、寺山修司監督の『田園に死す』を観た。
上映前に、美術監督の粟津さんが、映画製作当時の気分を短く講じられた。
――製作当時、時代は一方向的に“都会”を求めていた。文化的とはより都会的であるかのような思い込みが、あの時代にはあふれていた。寺山さんは、だから時代の気分に反逆する意味で、あえて田園というヴィジュアルをモチーフに選んだのだ、と。
それが僕にとって寺山映画を観て、シーザー音楽を聞く最初であった。御多分に漏れず、初体験の僕はその“異物感”で、すっかり毒気にあてられた気分になった。
「どうだ、面白いだろ?」
上映後、そんな僕の様子を見て、僕をその上映会に連れ出した友人が言った。こちらの驚きを見透かしたようなそのしたり顔がちょっとくやしくて、まあなと、軽く返答してみせると、彼――学生時代の幾原邦彦は、不敵に微笑んでいたものだ。
――思えば、あれからずいぶん月日は流れたのだ。あの頃の約束通りにこうして作品を創れたのは、たぶんとても幸運なことなのだろうと思う。
未踏の大地に一歩をしるすことこそがクリエイティブだ。
時代の気分に反逆すること。
反逆することで時代の新たな気分を創りだすこと。
けれどそれは、反逆という形で、やはり時代とともに歩んでいるのだろう。
今回、僕たちはまず、天上ウテナという少女のキャラクターを創った。
彼女に託したのは、本能と規範に抗う人間性の輝きを描いてみたかったからだ。その試みが成功したかどうかはまだ判断できないけれど。(……なんか、ぜんぜん“解説”をしてないな)
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第2話「誰がために薔薇は微笑む」 ●
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徳間書店「アニメージュ」97年4月号掲載 『咲き乱れるデュエリスト』挿入≫
“世界の果て”から薔薇の刻印を与えられていた生徒会メンバーは、桐生冬芽、西園寺莢一、土谷瑠果、有栖川樹璃、薫幹、桐生七実の六人である。
このうち、瑠果は病気療養のため休学。七実は薔薇の刻印を受け取っていたが、手紙の内容に興味が持てず(というかバカバカしく思い)相手にしていなかった。
基本設定の紹介話だから説明的なセリフが多いのはご容赦を。薔薇の花嫁。世界の果て。デュエリスト……でも、結局すべての説明をはぐらかしているな(笑)。
謎が多いと言われた本シリーズだが、本当に美しい謎は解かれないままに美しいのだ。
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第4話「光さす庭・プレリュード」 ●
この作品には、どうして兄妹の関係が繰り返し登場するのか、よく質問をうけた。ま、タブーであるがゆえのセクシャリティがその大きな理由だけれど、多少もっともらしく説明を加えるなら、それが“対立する以前の人間関係”をわかりやすく描けると思ったからだ。
デュエリストたちは強固な現実主義でありながら、みな一点だけ、弱点を持っている。現実を認めきれない弱い部分を持っている。その弱点ゆえに彼らはディオスの力を求めるとも言える。
『光さす庭』とは、薫幹にとって「過去にこだわること」の象徴である。
求めるべきディオスの力は、キャラクターのテーマによって、その名前を使いわけている。西園寺莢一の場合は“永遠”、薫幹は“輝くもの”、有栖川樹璃は“奇跡”である。
ところで、七実の“作戦のギャグ”は、おもに幾原のアイデアで構成したシークエンスで、とても榎戸脚本とは思えない仕上がりである。いや、やはり未踏の大地に一歩をしるすことこそが、クリエイティブなのか(笑)。
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第5話「光さす庭・フィナーレ」 ●
対立しない人間関係の喪失は、幼い頃、誰もが一度は体験する通過儀礼であるから、幼い幹の病気を、象徴的に“はしか”にしてみました。
「本当に大切なものは自分の手に入れて守らなきゃ」と冬芽は言う。対立なくして“自分”は存在しない。
このエピソードにおける決闘は、主人公ウテナの人間関係に対する考え方を明確に示している。
ウテナは、幹とアンシーが交際すればいいんじゃないかと思っている。幹がアンシーを口説けるよう応援もしている。では、決闘でわざと負けてやれば良さそうなものだけど、それはしない。フェアに交際するのではなく、所有権によって自分の思い通りにしようとする行為が、ウテナには絶対に許せないのだ。
だが、自分の思い込みでアンシーを幸せにしようとする幹の悲劇は、やがて来たるべきウテナの悲劇をも投影している。
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第7話「見果てぬ樹璃」 ●
登場人物の中でも殊更にエキセントリックな樹璃だが、秘めた想いという一点において共感を得られたようである。
本当の自分、弱い自分を知っていて、強くあろうとあがきつづける樹璃。でも、そんな彼女は、だからこそやはり強い人なのだ。たぶん本人が思う以上に。
シナリオとフィルムの若干の違いにとまどう方もいるかもしれない。けれど、シナリオ通りに映像化するのが、必ずしも本当の意味でシナリオ通りではない、ということを再確認させてくれるフィルムでした。
個々のテクニックに固執すると、本来めざしていた豊かさからもっとも遠い地平へと運ばれてしまう。僕たちスタッフが真にめざすものは、物語でも作画でも表現でも、そして主題ですらもなく、それらを総合することにより生まれる、全体の総和以上のなにかだ。(それにしても橋本カツヨは手強い演出家である(笑))
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第9話「永遠があるという城」 ●
冬芽と西園寺の少年時代を描いた。両親を失い、柩の中に隠れていた少女はもちろんウテナだが、鳳学園で再会したとき、二人はそのことに気づいていない。
ところで、両親を亡くした主人公、という設定は、児童向けの物語には多いように思う。
現実に両親を亡くしたわけではない子供にも、そうした設定の主人公が容易に感情移入できる装置として機能するのはなぜだろう。
幼い頃、庇護してくれる親は、神にも近しい絶対的な存在である。だが、ものごころがついてくるのと同時に、その親は神様ではなく、欠点も備えた自分とは別に人格であることを了解しはじめる。
このとき、絶対的な神様としての親は、子供の心の中で死ぬ。
実は、僕たちはみな子供の頃、ある意味では親を失っているのだ。
親にすべてを依存していればいい他力本願な生き方から、たった一人で世界と対峙しなければならなくなる瞬間というのを体験しているのだ。
(これはいつか、さいとう先生と電話で話していたのだが)多くの場合、人が恋愛に求めるのも、その失われた、対立しない(未分化な)関係性であろう。
余談だけれど、「――本当に友達がいると思ってるやつは馬鹿ですよ」というラストの冬芽のセリフを聞いて、あれがおまえの本音か、と何人かの友人が電話してきた。
えっと……少女革命ウテナは、フィクションです(笑)。
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