● 第14話「黒薔薇の少年たち」 ● 「ねえ馬宮、君には、薔薇の花嫁になる資格があるそうだよ」
「それを言うなら、花婿でしょ。僕は男の子だよ」
「君には、花嫁の方が似合ってるよ」
後に明らかになる馬宮の正体は別にして、ともすれば少女マンガで同性愛的な描写が多くなりがちなのは、その方が純愛を描きやすいからかな。親子の情愛には、つい“遺伝子の利益”を感じてしまうのだ。いつか正面から遺伝子と人間性の戦い、あるいは止揚をテーマとした物語を描いてみたい。
根室記念館で生き埋めになった百人の少年たちは、当時、Dクラスと呼ばれる謎の研究機関のメンバーだった。事件以後、Dクラスは欠番あつかいになり、鳳学園高等部では、今でもCクラスの隣の教室はEクラスになっている。
現在、Dクラスの学籍番号を持つ者は、根室記念館の地下にしかいない。
Dはdes(死)の頭文字なのか……というのは、ちょっと裏設定。
ついでに、黒薔薇編の決闘の名前をここに記しておこう。
疎外(aliéation)という名の決闘 [第14話 ・ vs 鳳 香苗]
執着(attache)という名の決闘 [第15話 ・ vs 薫 梢]
嫉妬(jalousis)という名の決闘 [第16話 ・ vs 高槻枝織]
焦燥(impatience)という名の決闘 [第18話 ・ vs 石蕗美蔓]
限界(limite)という名の決闘 [第20話 ・ vs 篠原若葉]
依存(dépendance)という名の決闘 [第21話 ・ vs 苑田茎子]
自覚(conscience)という名の決闘 [第23話 ・ vs 御影草時]
香苗がアンシーの存在に不安をおぼえたのは、本能的に暁生との“関係”に気づいていたのかもしれない。そして香苗の父親は、やはり暁生の奸計で、奥さんに毒をもられているのだろう。
● 第15話「その梢が指す風景」 ● 本当に人を好きになると、どうしても屈折しちゃうものだと思うけど……梢ってそんなに屈折してるかな? でも、屈折してる彼女は屈折してるままに美しいのだ(笑)。
劇中では“愛されること”に執着したために、利用されちゃったけどね。
幹に近寄る女の子やその他(笑)を、手段を選ばずに排除する。けれど、幹がいつも一緒にいる有栖川樹璃のことだけは、なんとなく認めているみたい。秘めた想いも、樹璃には素直に話している。
樹璃もまた、梢のことをよく理解しているようだ。知らないこともあるさ、とは言ってるが、あきらかに“知ってて訊いてる”よな。梢の友人たちより、樹璃の方が、よく彼女の本質を見抜いているかもしれない。
幹も、同じくらい妹のことを理解していれば、彼女は屈折しなかったのかな。
妹に対するイメージとのギャップに一番苦しんでいるのは、幹ではなく梢本人だ。本当は梢も、兄妹そろってピアノが弾ければいいのにと思ってるんだろうな。
いや、この兄妹は、互いに理解しあえないその関係性こそが似てるんだけどね。
ビデオ・LD[2]のジャケットで長谷川君の描いた二人がいい。左右それぞれの手をあわせたあのポーズ。二人は双子だけれど、互いに、鏡に映った鏡像でもあるのだろう。
ミルクセーキは、“対立する以前の人間関係”の象徴として使ってみた。
それはいつも、ちょっと甘すぎるものらしい。
● 第22話「根室記念館」 ● かつて、根室記念館の地下で生き埋めになったという百人の少年たちの身上は、百人のデュエリストだった。名前もなく、個性もなく、不明なプロジェクトに従事する少年たち。
そして彼らを操る“世界の果て”は、やはり暁生ではないのか。
鳳学園は、時空間の拘束すら受けない特殊な原理が支配しているようだ。
では、それはなにか? この学園を支配する原理はなにか?
ポイントは弱さである。
心象風景――夢とか記憶とか――と映像作品には共通するものが多くある。文法が似ているのかもしれない。(その方程式を解けば、案外、現実を解体できるのでは、と僕は考えている)
かつて“世界の果て”に選ばれたが、結局、あの永遠があるという城に到達できず、いまだにディオスの力を手に入れられない澱んだデュエリスト――それが御影草時である。
完璧であると自負しながら、天上ウテナを越えられない青年。
鳳暁生というメフィストに誘惑されたファウスト。
御影草時という名は、彼の本当の名前ではない。そして、その偽りの名前には、未練を残した想い人、時子の名が織り込まれている。
彼は、その弱さを自覚していない。
鳳学園という舞台は、弱さを軸にすべてが展開していく心象風景なのだ。
(それにしても作中では、脚本家にすら不明な記号がしばしば登場する。
いったい[
☜]はなんだ、[
☜ ]は!(笑))
「姉さんは理事会に呼び出されたから、たぶん夕方まで戻ってこないでしょう」
千唾馬宮は、姉・時子と、暁生の“関係”を知っているのだろう。
「あなたが僕を気にかけてくださってること、ちゃんと、姉さんに言っておきますから」
その上で、馬宮のこの言葉は根室教授の気持ちや弱さを見抜いた意地悪である。
あるいは、憧れの根室教授には、もっと超然としていてほしいという気持ちの裏返しなのかもしれない。
ここでも薔薇の花嫁は、現実の残酷さを知るときの記号である。● 第23話「デュエリストの条件」 ●デュエリストって、なんかみんな思い込みが激しかったり、片寄った人ばかりですね、という手紙を書いた君。
その通り。
才能とは、欠落であるという。
彼と彼女らは、生徒会メンバーであるという特権に守られてこそ、その特殊性を損なわずに学園生活をおくれるのだ。だが、崇拝の対象である彼らの才能は、いつでも、逆に疎外の理由にも転化しうるものである。
けれど、環境から疎外されて人が人間になったように、周囲にとけこめない彼らであるからこそ、一般生徒とは異なり、デュエリストになりえたのだ。
周囲との共同生活という点で言えば、幹よりは梢の方が、樹璃よりは枝織のほうが、うまくやれているし、実際そうしている。黒薔薇編は、一般の生徒が環境から疎外されて、デュエリストになるまでの過程を描いた物語だ。(それは“世界”と出会うまでの物語だ)
この第2部クライマックスのテーマは、御影草時がデュエリストであるその因果と、対称的なデュエリスト、天上ウテナとの対比である。
草時が負けた理由はなにか。なぜウテナのようになれないのか。自ら追いつめられ、澱んでしまった理由はなにか。
彼は、偽りの時間を生きる、虚像世界のデュエリストだったのか?
言ってしまえば――草時は、最初から本当の人生は生きてはいなかtった。
競争原理に支配された人生には、負けるときというのが必ずある。
大切なのは、負けたときに、それが負けであるということを認識することだ。認識する限りにおいては、その負けもまた、利用しうるひとつの状況になる。勝っていたかもしれない可能性も、冷静に考慮できる。
草時は“閉じた人生”をおくっていた。自身が体験することに対してすら、常に傍観者であった。彼は優秀な評論家であったかもしれないが、いつしかプレイヤーの本分を忘れ、評論家以外のスタンスを見失っていた。森羅万象のすべてが、ガラスを一枚隔てた“向こう側”のことになってしまっていた。
体験により自分が変わる、という前提を、彼はついに持てなかったのだ。
それは、なまじ才能があると陥りやすい、楽な生き方である。
楽な、しかし、結果的にはあらゆる豊かさを損なう、危険な生き方である。
だが、草時は、その弊害にもどこかで気づいていたのだろう。頭では自分が至高の存在であると理論武装していても、心のどこかでは負けを直感していた。
だからこそ時子やウテナにひかれたのだ。
だからこそ他人を操ることを信条としていた彼が、自身が決闘広場に足を運ぶことを、実は喜んでいたのだ。
ウテナに殴られて涙を流す自分が、本当に彼はうれしかったのだ。その勝ち負けに関係なく、ある意味では、そこで彼は救われたとも言える。そのとき、ようやく時間の凍った学園という庭を卒業できたともいえる。
才能あふれる草時には、なにが足りなかったのか? 才能と“実力”は、本当に似て非なるものだと思う。才能とは、現実への可能性でしかない。だが実力は、現実そのもののことだ。
結局、大事なのは“潔さ”だろう。
潔く生きること。負けたとき、それが負けだと認めること。
世界に対して自分を開く方法が他にあるだろうか?
自分を開いて生きなければ、凍った時間に閉ざされたまま、一生が過ぎていく。
卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれず死んでいく。
それは、僕自身への自戒の言葉でもあるのです。
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