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自身による収録作品解説:黙示録編
- 2013/08/03(Sat) -
徳間書店 アニメージュ文庫「少女革命ウテナ脚本集・下 薔薇の刻印」巻末収録
脚本集収録各話(34、37、38、39話)担当脚本家・榎戸洋司による解説
第34話「薔薇の刻印」
――おもちゃと同じだよね。“やがていらなくなる為に”、それは必要なんだ。

天上ウテナの指を飾る薔薇の刻印は、彼女にとっての“王子様”を両義的なものにしている。
王子様に近づく、という動機は、その言葉の曖昧さそのままに、恋愛対象としての“彼”に接近する行為と、自身が王子様になろうとすることを混同させているのだ。
崇拝対象への模倣。形から目指すことが人の本質である。
この“少女によるミメシス”は、王子様というイデアを浮き彫りにするための仕掛けだ。

いまだ語られざる、それは薔薇の物語。
第34話から、第4部「黙示録編」がはじまる。物語は、以後、最初から定められた終局の一点を目指して進んでいくことになる。
すなわち、少女革命。

第34話「薔薇の刻印」では、ウテナと王子様の出会いが描かれる。
詳細をここで話すことは控えるが、あの第9話での回想(教会のシーンね)の続きだ。
それはしかし、ウテナの中で、すでに失われた物語なのかもしれない。
けれど、薔薇の刻印は、今もウテナの指にある。なにかを見失ったとき、彼女を支える力になっている。
それはおもちゃではない。

ところで、革命とは、支配されている者が、その支配のシステムを破壊することである。
少女革命とは、だから少女が、少女を支配するものから自由になる物語だ。
作中における“王子様”は、実は、少女を支配するものとして設定されていた。
王子様、というのは、女の子がお姫様になるために必要な装置である。
それは関係性の儀式でしかない。
けれど女の子が女の子であることも、実は儀式でしかないのだ。
最後の決闘の末に、ウテナは“世界の果て”になにを見出すのか……。
                         (アニメージュ97年12月号掲載『薔薇の刻印』一部改稿)


第37話「世界を革命する者」
一度は薔薇の刻印をはずしたウテナ。
「暁生さんみたいなカッコイイ人とデートできるなんて、ホント、女の子冥利につきますよね」
ウテナは暁生への恋から“女”になってしまったようだが、実は、王子様の気高さを失ってはいなかった――あるいは取り戻す、という話。
後半の、幹、樹璃との会話シーン。初稿では、ただ会話をしているだけだったが、監督が、ウテナたちの気持ちのやりとりを、なにかキャッチボールのようなもので表現したいという要望があり、打合せた結果、バドミントンになった。
演出がいい。
愛されることより愛することの豊かさに気づいたウテナ、幹、樹璃、七実たちの、共感のアトモスフィアが見事に映像化されている、と感心した。いや、脚本家冥利につきます。
アンシーとの会話で、ボルジア家の毒、カンタレラが出てくるのは、暁生のキャラクターのモデルのひとつとしてチェーザレ・ボルジアを使っているからです。というわけで、暁生の誕生日の設定は、チェーザレ・ボルジアと同じ日になっています。


第38話「世界の果て」
作中でも言ってるけれど、暁生はデュエリストではない。
だから、薔薇の刻印もしていないし、名前に植物の器官名もついていない。
だから、自分に与えられるあらゆる肩書きが、“所詮は肩書きでしかない”ことを知っている。そして“世界の果て”を自称する。
主人公・天上ウテナの最終的な敵である“世界の果て”とは、いったい何者なのか?
“世界の果て”の前身であるディオスについての、企画時の構想は以下の通りである。

ディオス・プレストーリー
見知らぬ都市で。
不幸な境遇にあって、孤独な生活を強いられているひとりの少女がいた。
その少女を薄汚れた街の底から救ってくれたのは、やさしく、力強く、美しいディオスという若者だった。
以後、少女は、ディオスに“妹”として育てられることになる。
「これから僕たちふたりは、ずっと一緒に、助け合って生きていこう」
少女にとって、ディオスは、世界の全てとなった。

その世界の中心には、“革命の塔”と呼ばれる塔があった。その、禁断の聖域である最上階。そこにたどりつければ、世界を救う力――都市に徘徊する魔物を一掃する力を得ることができるという。
しかし、いまだかつて、そこに足を踏み入れることができた者がいなかった。
かねてから世界を救うという大義のために生きていた彼は、ある朝、ついにその塔の高みへと挑んでいった。
そしてディオスは、ついに、不可能と言われていた塔の最上階、禁断の階層に足を踏み入れる。
それは彼がデュエリストであるにしても、どれほど並外れた者であるかの証でもあった。彼に無理であるなら、およそ他の誰にも、この最上階へのぼることは不可能だっただろう。

だが、ディオスであってすら、ただ無事に、そこにたどりついたわけではなかった。
最上階へ入るために、彼は彼自身の“理想を追う心”を捨てねばならなかった。それが、真理を知り、力を手に入れるための、絶対の条件だったのだ。
“理想を追う心”を捨てたディオスは、しかし、すでにもとのディオスではなくなっていた。力を手に入れ、この世界の王となった彼は、もはやそれまでの彼を知るものにとっては、まったくの別人と言ってもよかった。

だから――
不安な思いで帰りを待つアンシーの前に、二度と再び、あのやさしいディオスがもどってくることはなかった。
塔の最上階で、いったいなにがあったのか。
どうしたわけか、そのときを境に、以後“その世界”は完全な闇に覆われることになる。魔物たちは消えるどころか、さらに勢いを増し跳梁するようになった。
魔物を払拭することを目的としていた彼は、しかしいまや、その魔物をあやつる、魔族の王となっていた。
そして残されていたはずの少女も、それから幾日もしないうちに“その世界”から姿を消した。


……いま読み返してみると“世界の果て”は、つまり“普通の大人”ってことか。
暁生の車に乗ったデュエリストたちは、なにを見せられたのか?
たぶん、たいしたものじゃないんだろうな(笑)。
理想だけで現実は渡っていけないことを認めるのに、ずいぶん時間のかかってしまう人はいる。現実を知らない(認めない)言葉だけで、世界を語りつくせるのではないかと。

大人は汚い、とかいうのは簡単だ。
けれど、手を汚すことを自覚する魂が、人間性を豊かさに深く関係しているのも確かだ。
そして描くべきもの――セクシャリティと人間性は、不可欠にしてひとつである。

だが――
現実を越える理想が現れたとき、そこに革命が起こる。
だから僕たちは、天上ウテナという少女を描いた。
勝てるわけがないと知りつつ、彼女に戦い抜いてほしいと思った。
ウテナはアンシーのすべてを受け入れた。
おそらくこのキリストは、鶏が鳴く前に、アンシーが三度ウテナを知らないと言うことを知っていたのだろう。

大人の汚さを嫌う安易さに比べて自身がそれに染まらずにいるのは難しい。同様に、人を好きになるのは簡単だが、裏切った人を許すのは難しい。
主人公のウテナ以上に、世界の果て/暁生を描くことの子細にこだわった意味は、今日という日に、僕たちがすべき鏡像だからである。



最終話「いつか一緒に輝いて」
ラストシーンは、シナリオでは雪が降っている。
実は打合せの段階から、アンシーが旅立つときは、できれば希望的なイメージの美術にしたいということだったが、結局そのシークエンスのヴィジュアルは絵コンテ、演出におまかせということで、シナリオ上は雪のままにしておいた。
この最終話は、みんなと一緒に、スタジオのTVで観た。
おりしもクリスマス・イブの放映で、聖夜にオンエアなんてサンタクロースの気分に浸れるかな、などと思っていたが、ラストシーンの音楽が流れる頃には、僕こそが一番のプレゼントの受け手の気分だった。

関係したすべてのスタッフの皆さん、そして応援してくれたファンの皆さんには、本当に感謝しています。
ありがとうございました。
多くの優秀なスタッフに恵まれて、脚本家としては、もう思い残すことはありません。
――もちろん、情熱だけはまだ冷めないけれど(笑)。
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