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風山十五インタビュー
- 2008/03/14(Fri) -
風山十五 (TVシリーズ:第19話 脚本 ・ 第9話 演出 ・ 第9、19、25、30、37話 絵コンテ
        劇場版:Aパート 絵コンテ担当)
美術出版社 「Art of UTENA」より

――風山さんがコンテを書いたのは9話が最初なんですよね。割と遅いスタートですか?

風山:そうですね。コンテで参加したのは僕が最後だと思うんですよ。だから緊張しました。当時上がってた5話のコンテとか見てね、「なんだこれは、こんなすごいことをやらなきゃいけないのか?」ってその場で帰りたくなって(笑)。

――9話の「永遠があるという城」をはじめ西園寺のエピソードが多いですね。

風山:そうですね。でもまあ、僕はキャラクターに自分を重ねるのは下手なんですよ。一歩引いて見てしまうというか……。でも共感はできる……というより好きなキャラという感じかな、西園寺に関しては。彼は、人に対する感情に裏表がないですよね。
他の人達はそうじゃなくて、本当はどう思ってるかがわからない。口で言ってる言葉はまるで舞台の上で喋ってるセリフのようじゃないですか。でも西園寺は違う。感情移入できると思うんですよ。欲しいものが欲しいと言える。あまりカッコいいことではないんですけどね。子供のやることですよ。
樹璃や幹、冬芽の抱えている悩みって、普通の人が持ってるものと違うタイプでしょう。子供の頃からのトラウマだったり、同性に対する感情だったり、それ自体は普通の事かもしれないけれどその深度が異様に深い。でも西園寺のものは普通の人の悩みに近い。僕も本当に普通の人間ですから。彼は『ウテナ』の世界観の中では実に人間っぽいんですよ。
劇場版でも僕の担当はAパートですけど、西園寺が出てきますよね。それも采配があったのかなって。錦織さんが「七実がかわいい」とか、橋本さんが「樹璃は俺だ」というように僕は「西園寺が好きだ」という感じですね。

――なるほど。あと、風山さんは19話「今は亡き王国の歌」で脚本も書いていますが。

風山:ええ。でもあれはちょっと、こういうパターンではできないな、と思った経験でしたね。シナリオがコンテみたいになってるんですよ。コンテでやるようなことをシナリオで書いちゃったものだから、積み重ねが非常に難しくて。普通だと第三者がシナリオを書いたり、各スタッフがいろんな要素を持ち寄って、そこに積み重ねることで生まれる世界があるんだけど、シナリオとコンテの両方を書いてしまうと、その工程が一つなくなるんです。それが僕的には辛かった。

――普通は脚本からコンテの段階で飛躍があったり、批判があったりするという。

風山:でも僕的にはそれって大事なことの一つなんじゃないかなって思うんですよ。そりゃ行き過ぎちゃうとちょっと問題もありますが。自分で思いついたことを脚本にしていくと、そこでもう絵が想像できちゃうんですよね。
19話で唯一救われているのは、これはあくまでシナリオ、コンテでの話ですが20話との対であるということです。20話は月村さんと橋本さんの世界ですよね。その差があったから救われた気がします。

――映像作家だと脚本も監督も撮影もやったりする人がいますよね。そういうタイプではないと。

風山:そうですね。個人の持ってる資質の違いでしょうね。僕は脚本を書くことが初めてだったんですが、「二度とやるか」と思いました(笑)。でもこの形にマッチする人もいるでしょうし、僕には合わなかったってことで。19話の敗因はそこではないかと(笑)。

――19話はウテナとアンシーをめぐる本筋の物語から外れてますが、ギャグ話でもないという特殊な位置にありますね。

風山:すごくサイドストーリー的な話数なんです。若葉の話というのが大前提で。で、若葉自体は特殊な女の子ではなく、学園で起こっている奇妙な物語の外にいるキャラじゃないですか。その生徒がウテナを通じて非日常的な学園生活を垣間みるという話なんです。
で、風見達也君も学園の摩訶不思議な世界の外にいる存在、そして彼も若葉を通じて学園の世界に入って来る。でも若葉や風見君はその世界の人間にはなりきれないんです。彼は生活していく上で、何ひとつ不自由ない普通の男の子なんですよね。日常世界にいる普通の人間。それは僕もそうだと思います。風見君に共感できましたから。
だからそういう生き方をしててはいけないと言ってるのではなく、『ウテナ』の世界の中にもそういう生き方をしている人もいるという気持ちで作りました。

――ラストで20話につながりますが、20話では若葉がデュエリストになりますよね。19話で風見君が御影に追い出される部分とも対照的だなと思いました。

風山:19話っていうのはかなりロマンチックなんですよ。20話もある意味ロマンチックで泣ける話ですが、表現の仕方が違っていて、そこが僕と橋本さんの違いなんですよね、きっと……。

――そのロマンチックな作風が風山さんの持ち味だと思うんですが、いかがでしょう。

風山:そうですね……話数の振り分けに、ある程度采配があったと思います。決闘シーンが出てくる話数は1回しかやってないですし、19話や30話は僕向きということで振られたのかな、と感じてました。19話なんて「これでいいのか?」と思いましたからね。物語の流れがいつもの『ウテナ』と違って、かなりロマンチックなんです。もう少女漫画のような。だから違和感を感じつつやってましたよ。

――30話「裸足の少女」に関してはいかがですか?

風山:30話もまた異質でロマンチックな話。30話はに関しては、さいとうちほ先生が描いた原作のムードを体現したつもりなんです。外れてたらごめんなさい(笑)。
僕自身はあまり少女漫画を読んだことがないんですが、さいとう先生の作品を読んで感じたのはキャラクターがすごく色っぽいということ。とても艶があるんですよ。だから「こういうムードが出せたらなあ」と思ってやってました。
さいとう先生が描く『ウテナ』のポスターなんか見るとね、やっぱり色っぽいんですよ。ゾクッときます。

――19話とムードを変えた部分はそのあたりという。

風山:ええ。かなり大人っぽいムードをイメージしました。もともと暁生は19歳くらいの設定なんだけど全然そう見えないですよね。40代くらいかっていう(笑)。しかも中学生から婚約者の母親までという幅広いフィールドを持っていて、女の子はみんな自分の虜。うらやましい(笑)。
観てる人はそんなヤツいるわけないだろって思うかも知れないけど、いるんですよ。なにせ「王子様」ですから。「王子様」っていうのはそうでしょ?全ての女の子を魅了する。全ての女の子の憧れなんです。

――なるほど。劇場版についてもお聞きしたいんですが、パート別に担当が分かれていましたよね。

風山:ええ。そういえばパンフレットにもA、B、C、D、Eパートと分けて記されてましたよね。パート別に分かれて不思議な統一感を感じていました。作っている人間のつながりというのがあって。人間が違っても到達できるところが共通しているという。そこは幾原さんのすごいところですよ。
で、僕がやったのは冒頭のAパートなんですが、見世物的な要素がすごく強いんです。
キャッチしなきゃいけないということを強く意識しました。観客をキャッチするための見世物的なハッタリ。美術にしても何にしてもそういう要素があって、劇場版はいろんな力の結集でしたね。それが幾原監督個人のフィルムに仕上がっているところが心憎い(笑)。

――冒頭だから、キャラや舞台の紹介という意味合いもあるんですよね。

風山:物語の導入部としての「つかみ」っていうものをやる感じですね。他のパートは映画としてのテイストを求められるんだけど、僕のやったパートはTVでやったことを映画的にアレンジして見せるという性格が強かったです。

――映画としてアレンジというのは具体的にはどういうことですか?

風山:世界観的なものはTVとさほど変わってないと思うんですよ。ただ描写としては、例えば鳳学園で言うと、もっと現実感のないものにしようと。ロケーションとかスケールについての情報が一切、設定の中にないんですよ。どこまで行っても鳳学園。じゃあ、どこにあるのかと言っても分からない。どんな高い所に昇っても外の世界が見えない。牢屋とか鳥かごという印象を強く意識しました。
TVの鳳学園はまだ日常生活っぽいんですよ。生活できそうな空間としての作りというか。学園生活を想像できるでしょ?でも劇場版では日常生活を描くのに必要な段取りを外してしまっている。とは言っても未来都市のような生活感のなさではなく、現実から逸脱している訳でもない、まさに管理された空間にしようとしたのかな…。

――劇場版は、物語性よりは表現を突き詰めた感じでしょうか。

風山:それはかなりありますけどね。TVだと「分からない」と言われたら終わりという感じなんですが、劇場版はもっと過激にできる。で、僕が思うにもともと『ウテナ』っていうのは分かるか分からないかにこだわりはないと思うんですよ。僕も僕が分かってる範囲でしか分からないし、それが正しいのかも実は分からない。ただ共有できるところで作品を作っていく。

――確かに、「もっと多くの人に、より共通の理解を得られるように」という意図で作られている作品とは違いますよね。ああいうのでは悪者は徹底的に悪の性質しか付けらなかったりしますが。

風山:『ウテナ』には一般的な道徳や人間性なんてものはないんですよ。そんなことは要求されなかったし、大体「世間一般としてこうだ」というような意見は巷に氾濫しているけど、それにどれくらいの意味があるのかっていうことなんです。良心とかね。それは大多数の言うことなら安心するという逃げ口上だったりもするのかなって。そういうものの外で成り立っているのが『ウテナ』なんじゃないかと。
100人のうち、99人が悪だと言えばそれは悪なのか、なんで後の1人は悪じゃないと思ったのか、それがさしたる理由じゃなくてもです。

――『ウテナ』の中心キャラたちも道徳うんぬんを決して述べ立てないと……。

風山:『ウテナ』のキャラクターというのは不具なんですよ。で、その欠けているところを埋めようとする。でも一般人は自分は不具ではないと思ってますよね。僕もそう思ってます。僕は普通の人です。だから欠けたものを埋めたいという心を客観的に見られるのかもしれない。
で、欠けたところを埋めるためには力が必要だと。でも、そんな力は本当はないんだと思うんですよ。ただ、あると思ってる気持ちがどこかせつなかったり、悲しかったり、笑えたりするんじゃないか。世の中には欠落している部分も発見できないという人間が多くて、実際それでも生きていけてますよね。でも、「それじゃダメだ」と思う人間だけがデュエリストになれる。それを強烈に埋めたいという意志なんかが鳳学園のゲームを生み出しているんじゃないか。不可能かもしれないけど、手に入るんだったら闘うという人間だけがそのゲームに参加できるという。

――なるほど。風山さんはそれを客観的に見ながら、絵コンテを切っていたという感じですか?

風山:僕はよく物事を一歩引いてる視点があると言われるんです。それは僕が、観客として見るという感覚を持って作ってるからだと思うんです。発信してるというより、自分が見ているという感覚の方が強い。誰かに対して作っているというより、自分で作って自分で見ている、そういう意識がいつもあるんです。
例えば橋本さんのフィルムとかって明らかに誰か特定の人間に発信しているような作り方ですよね(笑)。でもそこが彼の持ち味で、ストレートな部分が出ていて素晴らしいんですよ。『ウテナ』をやってて思ったのは、「すごい人が大勢いる」ってことです。この間、劇場版を見たときにすごく達成感があったんですよ。でもその達成感というのは≪たどりついた≫という意味じゃなくて、作品に最後まで関われて『ウテナ』という作品といっしょにゴールテープを切れたという満足感なのかも知れませんが。
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