幾原邦彦×竹宮恵子 『ウテナ』対談
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- 2008/05/11(Sun) -
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幾原邦彦(監督) VS 竹宮恵子(漫画家)
マガジン・マガジン「小説JUNE」 98年5月号より 「ウテナ」といえばまず目を奪うのは不思議でシュールな演出。空中に浮かぶ城、突然あらわれるカンガルー、影絵少女……どことなく70年代の前衛演劇に通じるムードを感じさせてもくれます。 寺山さんの演劇・天井桟敷の作曲家J.A.シーザーによる音楽もはまっていました。 生前の寺山さんと交流のあった竹宮先生も、決闘シーンのバックに流れるシーザーの楽曲に「『鉄腕アトム』のタイトルバック曲をはじめて聴いたときみたいに「これはクる!」って感じたものがあった」そうで、仕事場のBGMに「ウテナ」のサントラを愛用していたことも。 竹宮:「ウテナ」で使われているシーザーさんの楽曲はアニメらしく強い明るい感じですよね。ふだんのシーザーの、ちょっと寺山さんの跡を継いでるようなイメージがなくて、強くて張りがあって良かったなと。「なんだこういうふうにやったらまた全然違う感じがするんじゃないか」って。 幾原:そこらへんを気をつけて作ったというか。まあ、名前を出すのもあれなんですけど、寺山さんって、死んでから、シーザーさんも含めてどんどん文学化されていったんで、もうちょっと、寺山さんの好きなところで言うと“キッチュ”っていうか、楽しいものにしていきたいなあ、と。 竹宮:カフカ(※フランツ・カフカ)なんかでも、なんであんな重たいまんまにしておくのかなあ。すごいおかしいんですよ、カフカって。とんでる。 ――朗読をみんな笑って聴いてたという。 竹宮:笑えますよ、すごく。どうして深刻なものとして扱うんだろうなあ、時代が早すぎたのね、って感じがするし。それは寺山さんも同じなんじゃないかな。もっととんでしまっていいんじゃないかなって。私は歌が一番好きなんですよ。 幾原:詩がいいですよね。 竹宮:詩とか歌とか、投げ捨てるような感じがあるじゃない。 幾原:カッコイイですよね。でも、それ故に僕には寺山さんはちょっと分かりやすすぎて。これは作り手になっちゃったからそうなんでしょうけど、あまりにも完成しちゃってるから、近づきたいと思わなくなっちゃったんですよね。 ――「ウテナ」は宝塚との融合みたいな。 幾原:いや、そういうのは全然ないです。宝塚にしても少女マンガにしても、僕がマジにやればやるほどパロディになって行っちゃう。なんとかパロディにしないで済む方法がないかなと考えてシーザーさんとかでてくるんです。単純に宝塚的にしちゃうと、どんどん“宝塚のようなもの”になって行く。それが怖かったんですよね。 ――それで心理的なものに。 幾原:それも突っ込んで行くとパロディみたいになっちゃうんですよね。それこそJUNEのパロディみたいに。そういう意味でキッチュにしたいなと。 竹宮:最初は「何、このとんでもないアニメは」って笑って見られるようなところもあったし。で、まとめて見ると「けっこう重いじゃないか」みたいな。 ―― 一応、女の子の視聴者を想定して作られたんですか? 幾原:入口はそうでしたね。企画段階では、スポンサーやメーカーの方に、少女マンガだって言わないと理解してもらえないので。でも、いざ制作をスタートしたら、僕の中ではそんなことどうでも良かったです。 ――じゃあ、さいとうちほさん(キャラクター原案とマンガ版を担当)が少女マンガにふみとどまっていたという。 幾原:っていうかね、さいとう先生がいると僕、楽なんですよ。いなかったら、僕が少女マンガのパロディしないといけなくなっちゃって、そうすると嘘くさいですよね。どんどん偽物っぽくなって。でもさいとう先生がいてくれると、僕が何も言わないでも「宝塚ですね」って(世間は)言ってくれるし。 ――最後までのプランは初めからできてたんですか? 幾原:できてないですね。キーワードみたいなのは最初からあったけど。“世界の果て”とか。 ――世界の頂上まで登って世界を見下ろすことになるから、企画段階で、主人公に天上って名づけたって聞きましたけど。 幾原:いやなことを知ってるねえ(笑)。 ――結局、「ウテナ」は、アンシーが主人公だったんでしょうか? 竹宮:「ウテナとアンシーの話なのね」って最終回の5回前ぐらいに言ってたんですよ。でも終わってみると、「なんだ不特定多数の話だったんだ」って思った。 ――アンシーっていやな子ですよね。 竹宮:そうですかね。私は全然。 ――個人的に、女の子に嫌われるだけだよなあと思ったんですが。あれが綾波(「エヴァンゲリオン」)だったらもっと人気があったような。 竹宮:綾波の方がやな子じゃないかなあ(笑)。女の子集団にとっては。 ――でも、人気キャラにしようと思ってアンシーを出したんですよね。 幾原:できなかったんです。途中でそういうことを放棄しちゃったんだよね。なんでそうしちゃったのかなあ。媚びるのがいやになったんだな、視聴者に。そういうの一切やめちゃった。 竹宮:じゃあ、作っているなかで一番大事にしていたのは何ですか。 幾原何でしょうねえ。忘れちゃったなあ。 竹宮:だから私は“出ちゃってる”んじゃないかと思うんですよ。幾原さんの心理的な部分がね。あんまり“作ってる”気がしない。 幾原:そうですね。 ――特に「エヴァ」の後だったせいもあって、作られてるんじゃないかと、みんな「ダマされたくない」みたいな。 幾原:ひとつひとつの描写には当然、隠喩みたいなことはあるんですよ。とりあえずそうじゃないと周りのスタッフが納得しないんで(笑)。でもそれ(視聴者に自分の意図を理解させること)が自分の中で大事なことかっていったらそうでもないんですよね。 竹宮:「このシーンはなんの意味だったの」っていうのはばかばかしいっていうか。最初は薔薇の花嫁だからこそ剣が出て来るんだと思ってたら、(第2部は各キャラが剣を出すから)「なんだ全員オッケーなんだ」って、そのあたりで理解しようというのを捨てました(笑)。ただ感じるだけ。 幾原:賢明ですねえ(笑)。 竹宮:決闘っていう形で決着をつけて、段階を上がっていくっていう形をとっただけ。 幾原:そういうことですね。でも、さっき先生が「ただ感じるだけ」と言って下さったのは、最高の誉め言葉だから嬉しいです。 ――竹宮先生はストーリーとキャラクター、どっちが優先されます? 竹宮:ストーリーのためにキャラクターが変わって行くのがすごくイヤなんですよね。私の「天馬の血族」は特に実際に年をとって成長していく話なので、環境によって変わってしまうじゃないですか。それが最初の印象とあまりずれないようにするのが大変。どちらかというとキャラ優先であるべきだとは思う。 ――ウテナの方は成長したんでしょうか。 幾原:どうでしょう。そういう意味では僕は出たとこ勝負ですから。 竹宮:ウテナは変わらないっていう話でしたよね。 幾原:まだ、自分が何をやったのかよくわかんないんですね。 ――さっき、不特定の話だって思われたっておっしゃってましたが? 竹宮:だから、“ウテナみたいな女の子”、“アンシーみたいな女の子”っていう不特定のものっていう感じだったんです。それがゲームっぽいなと思った。企画のきっかけはゲームからだって聞いたんで。自立というか、自分を発見する話。女の子が「自分は何なの?」って規定する話っていう感じで。 幾原:自分の心境がそうだったんじゃないですかね。自分の短い生涯を振り返ってみると(笑)、山から追われたっていう印象が非常に強いもので。「山から追われました、これから一人で生きて行きます」っていうのを「ちくしょう、よくも俺を追い出しやがって」って卑屈にならずに明るく描きたいなと思ったんです。最後は特にそうでしたね。“山”はもちろん、ウテナで言うと“学校”なんですけどね。 学校っていうのはもっと言っちゃうと自分がもともと所属していた社会であるとか、そういうことなんですけど。学校自体がひとつの社会ですから。まあ、これからも追われることはあるかもしれません(笑)。 竹宮:だからラストでウテナが忘れられた存在になっちゃいますよね。ああいうのも現実世界にありがちだと思うし、人は昔の事実を都合のいいようになかったことにしちゃうみたいなところあるじゃないですか。そういう比喩をすごく感じて、面白かったです。 ――ウテナは最初からあの話数だったんですか。 幾原:最初からその予定でしたけど、途中で息切れしてかなり息切れしてかなり苦しくなりました。それは制作のキャパで、体力なかったんで。 ――第2部の根室記念館のくだりが面白かったんですが。 幾原:僕はあのへんがダメだったんです。ただ今にして思えば、あれがあってようやくついて行こうと思った人もいるんじゃないかと(笑)。あのあたりはかなり不安でしたね。居場所が決められちゃうんじゃないか、「ああ、これはこういう作品か」ってされちゃうかなって。すぐコミケの人たちは居場所を決めちゃうから(笑)。 ――そのあたりは裏切ろうと。 幾原:裏切るっていうか、そういう(パロディとして消費される作品の)つもりで作ってたんじゃないかった。むしろ居場所のない作品にしたかったんで。 ただどうしてもそうならざるを得ない時期があったんですよね、じゃないとスタッフが理解できなくなっていたし。だから第3部は第2部を巻き返すのに必死でした。でもいきなり第1部と第3部を合体させたら誰も見なかっただろうな(笑)。 ――特に第3部なんか人に説明のしようがない。人から話を聞いてても「車がとにかく走っててさあ、なんか暁生が胸をはだけてさあ…」(笑)。 竹宮:なんか人に言いたくなっちゃうんですよね。 ――その熱気がとにかくすごいんで「しまった見にゃあいかん」みたいな。 幾原:それをもともと狙ってましたから。第2部で何が不安だったかと言うと、口で説明できそうな話になって来てたから。そういうふうに言葉にしようとしても、説明できないと言われるのが一番ありがたい(笑)。 竹宮:まず初めに「変なんだよ」って(笑)。 竹宮:女の子にとって、王子様っていろんな意味で象徴的なものですね。王子様のようなりりしい女の子っていうの。特に(暁生とウテナが)一夜を過ごすところ。 幾原:あそこはやってて恐かったですよね。嫌がらせかなっていう感じになっちゃうんで、ブレーキ踏みつつやってたっていう感じですね。僕は女性じゃないから、そこにほんとに突っ込んで行くと「余計なお世話だよ」っていう話になるんじゃないかと。 竹宮:私は全然そういうところはなかったですね。 ――「女の子っていうのは薔薇の花嫁みたいなものですから」っていうアンシーのセリフ、かなり思い切ってるなと。 幾原:だからそれにしても、僕は女性じゃないですからね。そういう言葉を僕やうちのスタッフが作っちゃったりしても、なんか説教になっちゃうっていう。もちろん視聴者が説教だと取らなければいいかもしれないんだけど。でもやっぱり作り手である僕が男性だから、そんなこと言っても何かねえって(笑)。 竹宮:遠慮ですか、それは? 幾原:なんか嘘っぽいっていうか。女性のほっぺたをはり倒して「目をさませ!王子様はいないんだ」って言ってもねえ。別に女の子に説教したいわけじゃなかったですし。 竹宮:でも女の子はそういうところたくましいんじゃないですか。何言われても平気っていうところもあると思うし。 幾原:向かって来てくれる分にはいいんですけど、押し付けがましくなっちゃうとマズイなと思ってブレーキ踏んでたんですけどもね、どうしても話進めるために止められなくなってる部分なんですよね。 ――竹宮さんの場合、そういう不安ってないですよね。 竹宮:別に女の子の話、男の子の話って思わずに描いてるからだと思うけど。ジルベールにしろセルジュにしろ、男の子であっても読者が同化できるんならそれでいいし。だからそういう意味で遠慮したことはない。「これって女性蔑視のセリフじゃないっ」とか良く言われるんですけれども、「だからなんなの」みたいな(笑)。 幾原:確かにやってる途中でそのキャラクターが女性だからとか男性だからとかあんまり考えないですね。ただ、さっきみたいなセリフが出てくると、どうしても、自分は男性なんだと意識しちゃってブレーキがかかるんですよね。 ――男の立場から、王子様を求められても困るというのはないですか。 幾原:いやそれは、僕もお姫様とかお母さんを女性に求めてしまいますから、求められた時はお互いに求め合いましょう、と折り合いをつけますけれども(笑)。まあ、世の中にはそれでは納得してくれない子もいるだろうから。その子達のためにこのアニメを(笑)。 竹宮:“世界の果て”っていうのが、王子様のなれの果てなのかなあと。あんまり王子様にこだわってると逆に普通の人になっちゃうよ、みたいな。いつまでも子供でいる大人っていう感じで。そういう皮肉なのかなあとか(笑)。 幾原:皮肉じゃないです。女の子が王子様を求めているとかいないとか、男性が考えるそういう女の子全般に対する解釈自体がステレオタイプの考えだったりするから。それよりは「王子様になれなくてすまん!」っていう自分の気持ちの方が強くフィルムに出たんじゃないですかね。やっぱり僕は男性だから。自分はどうやら王子様になれそうもないなあって(笑)。 ならなきゃいかんっていうのも、志としてそれが大事だっていうのも良くわかる。けどちょっと難しそうだっていう。まだ諦めたわけじゃないんだけど、どうやら王子様にはなれなさそうだっていう状態の人が作った作品(笑)。 竹宮:女の子にとって王子様って何でしょうね? 幾原:自分の主体をゆだねられる人。もっと言ってしまうと、単純にはお父さんですよね。 竹宮:王子様とかお父さんて支えてる人がいるわけですよね。従女とか妻とかが。そういうのがアンシーになるのかな。 幾原:あんまり僕が言っちゃうといやらしくなるんですけど、女性が見た都市とか社会の中には、やっぱり父性とか王子様っていうイリュージョンがあるんではないかと思ったんですよ。存在してほしいというイリュージョンかもしれないですけど。 竹宮:年とっても少女でい続ける人には、それはあるんじゃないでしょうか。憧れというより、少女であり続けるために必要なもの?そういう意味では大人になっちゃったのかな、幾原さんは(笑)。なれないって規定をしているわけだから。 ――企画段階ではウテナが世界を見下ろす、というのも、そのイリュージョンとの隔たりを示す、という? 幾原:そうですね。女性を通して社会システムを考えようってことでしたから。 竹宮:見下ろすっていう言葉だけ聞くと、勝ち誇った感じありますけどね、結末はそうじゃなかったですね。 ――最初に考えていたのとは、違うとこ行ったわけですね。 幾原:いやそうでもない。やっぱり必然なんですよ。結局僕がアニメで描かれているウテナのポジションと同化しちゃったから、ああなったんだと。嘘をつきたくなかったんじゃないかな。見下ろせるようなところまで自分が行けてないからね(笑)。 ――幾原さんは完全無欠の王子様になりたかったんですか? 幾原:それはそうですよ。 ――それはお姫様は大勢のハーレム状態? 幾原:男性は普通そうですよ(笑)。 ――そういう考え方も“世界の果て”なのでは(笑)。 竹宮:お聞きしたかったのは、女の子にとっての“一線を超える”というところですね。「ウテナ」は案外簡単に飛び越えるじゃないですか。 幾原:ああ、深いところは考えてないですね。というか、どうでもいいっていうことを単に提示したかっただけかもしれないですね。純潔とかどうかにこだわってる人が多かったんで、そういうことはどうでもいいんですって表明したかったんでしょうね。 竹宮:でも今時の子は全然こだわっていない方が多いんじゃないですか? 幾原:そうですね、だからそうしたっていうのはあります。でも、アニメーションだからこそ純潔は大事だという枠に入れたがる人は多いんじゃないのかな。 竹宮:逆に純潔かどうかを理解の指標にしている人は多いんじゃないのかな。それを超えると大人なんだとか。 幾原:そうですね。純潔であるかないかで、絶対悪であるとか正義であるとか線を引きたがっている人が多かったんで、そうはしたくなかったっていうのがありますね。マンガにしてもアニメにしても現実に対するモチベーションになるわけじゃないですか。読者や視聴者にとっては。その中で社会で言うところの絶対悪って純潔じゃないってことですよ、て僕が線を引いちゃうのが嫌だったんですね。たかが、フィクションに過ぎないアニメーションで肉体的に純潔であるかないかで線引きをするっていうのは。 竹宮:私が「風木」を描いてた時期には、まず一線を越えるか越えないかが問題(笑)。でも私の頭の中では純潔に全然興味がなかったので、最初から超えちゃってて、そこから始まったっていう。それがわかんないようじゃ何も語れないっていう感じで。 幾原:あと、作者が男性の場合、ものすごい特殊能力があったりする女性キャラだと、女神とか、巫女さんにしたくなるんですよね。社会の中で、巫女さんのポジションだと、男性はホッとするんですよ。だから僕自身、それにあらがいたかったのかも。 竹宮:私も巫女だと言われたことがあるぞ(笑)。全然そうじゃないのに(笑)。その頃、私って現実感覚がなくて、それこそ切符も買えない奴ですよ。社会のことを見てない。だから誰でも巫女さんになれますよ、閉じこめておけば(笑)。 幾原:僕が先生のマンガで好きなのは、街の話を描いているところ。都市論みたいなのがでてくるのがすごく好きなんです。「天馬」は、都から追われた男の人と女の人の話でしょう。そういうところとか、あとイスマイルが都の快楽に体を毒されるじゃないですか。「俺のことかな?」って(笑)。僕ももっとチヤホヤして欲しいとか、雑誌に出たいとか(一同爆笑)。 草原の民だというのを彼自身忘れかけてる。「風と木の詩」も最後、街で話の決着がつくじゃないですか。セルジュの両親なんかも街を追われた人だし。 “街”と、“もう一人の自分”の話はすごく惹かれますね。もう一人の自分、半身の話を描く少女マンガ家は多いんですけど、都市を描く人がいないんですよね。都市論がなく、親兄弟や隣人などだけで語られる半身の物語って、やっぱり脆弱だと思うんですよ。だから、同時に都市論を描く先生のマンガは、必ずその時代をあぶり出してるように見えるんですね。そこが、その他の半身の物語と一線を画しているところだと思います。 竹宮:私にとっては、生活感がないものはつまらないというのが基礎的な部分なんです。人間も、まあ、ひとつの細胞だと思ってて、それが死というものを司っているのかって捉え方なので、“都市全体が身体なんだ”っていうのがないと世界が描けない気がする。住んでる街によって、近代的になっていく人もいるし、田舎臭くなっていく人もいるし、環境がすごく作用するもんだから、描かなきゃしょうがないんですけど、私にしてみれば。 幾原:あんまり「解釈しました」ふうに言いたくないんですけど、半身であるジルベールを失ったセルジュは大人になってしまい、自分の心に住む彼にもう一度出会うためにピアノを奏かざるをえなくなる。それって、作家の根拠である、永遠に満たされることのない飢えが設定されたって話ですよね。つまり、「風木」は“こういうふうにして竹宮恵子は都会の中で作家になり、現在に至りました”っていう話としてはよくわかるんです。 もちろん違うって言う人もいるだろうけど、僕は“竹宮さんの話”だなあっていう感じがしたんです。で、「地球へ…」なんかを見ると決着の付け方が、すごくシステムを燃やしたい気持ち、街を燃やしたい気持ちが当時の心境として良くわかるなあって気がするんですよ。 竹宮:最終的に“破壊=建設”みたいなのありますよね。破壊しないと建設できない、建設しないと破壊できないじゃないかみたいな(笑)。 幾原:やっぱり燃えちゃうんですか、街が。 竹宮:今の私には破壊するほど社会への愛はないなあ。 幾原:よく言われるじゃないですか、80年代的な僕たちの都市論っていうのが全部燃やしちゃうもので、90年代的な僕たちの都市論だと燃やすっていう決着の付け方はないだろうっていう。特にオウムなんかが出ちゃったあとで、そういうのはないだろうって。だから、そんな困難な時代に先生はどうやって決着をつけるんだろうなあって、そこがすごい気になったんですよ。 「ウテナ」も、学校燃やしちゃえば簡単だったんだろうけど、そりゃないだろうと思ったんで。 竹宮:結論としては、似てる……かもしれないっていう気がしますね。 幾原:僕、都市の快楽を享受しているっていう自覚がないんで、東京からのけ者にされてるような意識があってですね。だからいよいよとなったら燃やすしかないと思うかもしれない(笑)。 竹宮:壊さずに終わらせる方法を考えましょうよ(笑)。 幾原:都市の快楽に混ぜてくれないくらいだったら燃やしてやる、と言って、イスマイル(※「天馬の血族」の登場人物。チンギス・ハーン(オルス)の異母弟。兄にコンプレックスを抱いていて、そこにつけこんだ帝の妖力に操られるまま、帝とオルスの争いに利用されてしまう)がああいうふうになっていくじゃないですか。ダブりますよね、自分と(笑)。 なんか僕は自意識(過剰)の子ですから……。チンギス・ハーンって全然自意識がないですね。 竹宮:だから、私言われてますよ、自意識の子に「先生はそういう者の味方だったんじゃないですか」って「今のは違う、味方して描いてくれてない」って。 幾原:ああ、なるほどねえ。さっき破壊って言いましたけど、自意識があったりすると、本当の意味での破壊って難しいんじゃないかな。自己変革って意味での破壊は。 ハーンに自意識がないっていうのは・・もしかして、昔から先生にとってのいい男には自意識がなかったんですかね、「地球へ…」のジョミーとか。 竹宮:うーん、最初の、学校にいた頃のジョミーにはありますね。ミュウとして目覚めてからはないように見えますかねえ。 幾原:やっぱりチンギス・ハーンは先生にとっての理想の男性なんですか? 竹宮:実は私自身はオルスに同化しているんです。アルトジンではないんです。理想というより、自分の性質がこういう立場に立ったら、と思いながら描いてるオルスは自意識がないんではなくて、ああいう自意識なんです。 たぶん、ごく小さい頃にすっごく自意識のかたまりだった頃があって、それを捨てないと生きていけないほどだったので、全部を含む自分を設定した人なんです。私、自意識はツライので意識したくない。持っていられるほうがエライと思うぞ…違うかなあ。 幾原:男性は自意識があるとダメですよね。最近の男の子ってみんな自意識の塊みたいなもんだから。 竹宮:みんなイスマイルには同情的なんですよ、女の子たちは。自意識あるから「かわいいじゃないか」って思うみたい。 幾原:それはねえ、イスマイルを好きなんじゃなくて自分のことが好きなんですよ(笑)。まあ、僕も自分が好きだから、イスマイルが大好きなんだろうけど(笑)。 (二月十七日、新宿にて) スポンサーサイト
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