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ビーパパスの贈答品の酒をいただく係  長谷川眞也インタビュー
- 2008/06/09(Mon) -
長谷川眞也(キャラクターデザイン) インタビュー
ソニー・マガジンズ 「薔薇の全貌」 袋とじインタビューより

――長谷川さんがアニメーターになろうと思ったきっかけは何ですか?

長谷川:アニメーター稼業は今年で10年目になりますが、実は最初っからアニメーターを目指してたわけじゃないんです。もちろん東京デザイナー学院のアニメ科に入って勉強してた頃はアニメーター志望だったけど、その前の学生時代はそうじゃなかった。
アニメも、まあ小さい頃は人並みに観ていた程度で。中学に入ったらもう水泳の部活一筋でした。学生時代は主に、部活やバイトなど課外授業で忙しかったです。

――じゃあその頃から絵をずっと描いてた、というわけじゃないんですか。

長谷川:いや、絵は描いてました。いろんな模写もしたし、マンガっぽい絵ですけどね。中学の時はアニメから離れてたけど、高校に入ってからまたアニメを観はじめたんです。そのぐらいから「あ、仕事として絵を描きたいな」と思いはじめました。

――それはもう、アニメーションの世界に照準にあったと。

長谷川:そうですね。友達にそういう絵の業界にすごい詳しいヤツがいたんですよ。いまテレビで放送されてるアニメ作品をやりたきゃナントカ専門学校に入るといいぞとか、横つながりでいろんな情報をもらったんです。乱暴な言い方をすると絵を描く仕事をしたいと思った時に、別に絵の素地をすごく勉強していたわけでもなくて、当時は落書きみたいな絵しか描いてなかったから、それを仕事にしようと思えばアニメ系に落ちついちゃったんです。

――やはり絵を描くことがお好きだったんですね。

長谷川:うん。それと絵を描くことに飽きなかったというのがある。
さっきも言ったけど、中学の時は部活や勉強にけっこう熱中してたんです。で、高校に入ったらなんて気が抜けちゃって。僕の高校が割と勉強熱心な進学校だったんですね。やっと合格したんだから、勉強はもうしなくていいじゃんみたいな(笑)。
そこでみんなとは違う、勉強やスポーツ以外に熱中できる何かがないかと探してたんです。で、8ミリ映画を撮ったり無線の資格を取得したり、望遠鏡を買って山へ星を見に行ったり・・・高校を出て少し無職の期間があって、その時は公務員試験を受けてみたり。いろんなことをやってはみたけど、その中で飽きずに残った選択肢が絵を描くことだった。だからアニメをやらなきゃ生きていけない!みたいな追い詰められたところからアニメーターを目指したわけではないんです。

――なるほど。そうやって絵を描いてこらてたわけですが、昔から『ウテナ』みたいなタッチの絵だったんですか?

長谷川:昔の友だちに『お前を絵は、全然変わってない』と言われます。自分ではわかんないんですけどね。でも自覚できるといろいろ描き分けもできるからいいとは思う。
残念ながら、それができるほど全力で絵の勉強にのめりこんでいた時期はあまりなかったんですけどね。

――女の子の体のラインを美しく描く長谷川さんですが、やはり昔もこの路線だったんですか。

長谷川:いやいや。男が女の子の絵を描こうものなら笑われるって云うか気恥ずかしい時期ってあるじゃないですか(笑)。だからアニメーターをちゃんと目指す時期になるまでは、きちんとした女の子の絵を描きませんでしたね。あ、でも家でこっそり落書きしていましたけど。

――今では「現在の男性アニメーターの中で最も少女マンガの絵を描ける」と言われてますよね。

長谷川:うーん、自分ではよくわからないけど・・・どうだろう。やっぱり少女マンガのキャラをずっと描いてたから慣れてるんだとは思う。10年間アニメーターやってて、そのうち8年間は少女マンガのキャラを担当してるから。単純計算で『セーラームーン』を5年、『ウテナ』を3年ですからね。それ以外は『ゲッターロボ』 『エヴァンゲリオン』ぐらいしかちゃんとかかわってないし。いまはすっかり少女マンガ専門のアニメーターのイメージがありますね。

――『ウテナ』で完全に長谷川さんのカラーが確立されたように見受けられますが、ご自身ではどのように思われていますか?

長谷川:うーん・・・けっこう自分の型が決まってしまうのに、抗ったりもしたんですが。アニメーターは本来はまんがが原作であれメカであれ、好き嫌いなくあらゆるタイプのキャラクターや動きを描けないといけないんだと。システムの中のアニメと個人的な仕事はそういう意味では矛盾しています。気をつけていてもクセが出てしまうのは仕方ないですねえ。まぁ、最近はアニメ以外の仕事も多いし。


――アニメーターを目指すうえで、影響を受けた作品はありますか。

長谷川:これはカッコいいなって一時的にハマッたのもあった。だけどいまだに残っているのは何かって言われると、すぐには思い浮かばないなあ。

――この作品を精神的な糧にアニメーターを続けています、ということはないんですね。

長谷川:そこまで執着している作品ってやっぱり無いなあ。逆に他のアニメーターさんって、そういうのあるの?この作品が人生の師匠です、みたいな。

――けっこう多いようですよ。学生時代に感銘を受けた作品が創作活動の軸になってるというアニメーターの方は。

長谷川:このヒトの作品は一生越えられません、みたいなものかなぁ。僕の場合、一生懸命思い出せば出てくるかもしれないけど…。そこまで興味を持ってアニメ作品って覚えが無いんですよね。だからって決してアニメが嫌いとかなんじゃないですよ(笑)。
さっきも言ったけど作品数は本当にいっぱい観たし、アニメのために割いた時間も多いしね。いろんなアニメ作家がいると思うんですよ。僕みたくあまり特定の作品にのめりこんでいない人もいるし、逆に影響を受けちゃうから、一切他の作品から情報をシャットアウトしてる人もいる。それとは逆に他の作品からリスペクトして、ラクチンにすごい作品を創れる人もいるし。そういうのって百人百様ですよ。それに特定の作品にめちゃくちゃ入れ込んでいて、『今は作り手やっています』ってやり方だと、その作品からどうしても逃げられないというか、限界を作っちゃうんじゃないかと思うんですね。
僕の場合きっと自分では気づかないけど何かの作品に影響を受けて、いまに至ってるとは思うんですが、それを特別に意識しようとは思わないです。物を創るうえでの枷になるというか・・・。

――何か創作というものに対してかなりの信念を持っていらっしゃるようですね。制作側に10年居て、長谷川さんから見た他のアニメーターさんの傾向などはどうなんですか。

長谷川:こういう業界だと狭い範囲で「自分の趣向に沿ったもの以外はやりません」という人はやっぱり多いかな。なんかどこかに頑固過ぎると云うか。でも否定の気持ちは無いですね。その筋のプロであればいいんだし。
「●●さんの作品ってスゴいよね、ああいうの作りたいよね」と言い続け、なんとか●●さんフリークの横つながりでそこに行き着く。そうやって業界内でたくましく人脈作ってやってる人もいる。そういうのもその人の信念だし、そのやり方もありだと思う。

――特定の作家さんや作品が好きだと言っていれば「じゃあ自分と魂は同じだ」みたいなつながりで仕事が回ってきたりすることもありますね。

長谷川:うん。このアニメ業界、やっぱりみんな昔に同じアニメを見て仕事を始めた人が多いし。でもね、僕たちが見てたアニメを作ってきた世代の人たちは、別にアニメを見て仕事を始めた人たちじゃなかった。それこそアニメーションの創成期で、画家やマンガ家を目指してたけど食えなかったり、たまたまそこに配属されて何もわからないままアニメをはじめた人たちが多かったり。でも実際にスゴい作品を創ってきた人たちなわけですよ。
つまり僕たちが憧れているアニメ作家の人たちの原点はアニメじゃないところにある。きっと僕たちの世代が、いくらアニメが好きだったって言っても、原点をたどってゆけばアニメじゃない別の地平に出ていくんじゃないかって思います。だからいまからアニメーターをやりたいような若い人は、アニメだけじゃなく視野を広く持った方が絶対にいいと思います。
アニメの作業ってついつい狭い世界で影響しやすいから。それで仕事的には事足りるから満足しちゃう。僕がそうだったからってわけじゃないけど、いろんな物事を吸収しておいた方が、キャラの絵を描くにしても絶対にいいはずだから。

――それでは順を追って『ウテナ』の軌跡と長谷川さんの関わりを聞かせていただきたいのですが、いつぐらいからこのプロジェクトが動き始めていたのでしょうか?

長谷川:まだ東映動画で作業してた頃ですから'94年の末頃かな。それこそ『セーラームーン』を手掛けてた頃です。幾原さんももちろん東映です。たまにやってきては「こんな感じの絵描ける?」みたいな感じでとあるまんがを持ってきたり。まだ『ウテナ』のカタチにはなっていなかったけど。

――具体的な話が正式にきたのは?

長谷川:うーん当時、幾原さんからは内々で新作の話をいろいろ聞かされてたんですよ。実はさいとう先生にターゲットを向けている、とか。すべてが決まり次第東映を抜けるとか。で、やっぱりキャラデザは・・・どうしようかなぁ・・・とか(笑)。

――幾原さんは、もう新企画のキャラデザをやってもらうのは長谷川さんしかにないと思っていたのではないですか?

長谷川:それは・・・どうだろう(苦笑)。でも幾原さんも東映を辞めて「さあ新企画を動かそう」ってときでもあったし頑張っていたからね。それに僕が東映を抜けた時期と彼の動きがちょうど合ってたから、東映の作画マンの中では僕に声をかけやすかったというのはあったんじゃないでしょうか。僕は当時、それとは別で庵野さんに「手伝わない?うちでやんない?」って誘われていた。で、その年の秋口ぐらいに幾原さんが独立して例の企画を進めるということを正式に聞いたんです。だから偶然だけど翌年からは、同時に2本の作品を手伝うことになったんです。

――ほぼ同時進行だったんですか。

長谷川:そう。次の年の'95年の4月には『エヴァ』の作画に入ったんですけど、5月にはさいとうさんに会ってた。夏にはこのビーパパスの事務所を探していて、その頃には『ウテナ』のスタッフ集めを本格的にやってました。しんどかったですよ。元旦に打ち合わせをやってたしね。幾原・さいとう・榎戸・僕で合宿をしようと言われたけど、僕だけ欠席しました(笑)。
自分のイメージがないままの打ち合わせが、めっぽう不本意に思えたので、当時は元旦からずーっとスタジオにこもって、キャラを煮詰めていましたね。

――ウワサでは、さいとう先生のキャラをアニメ用にリライトするのは大変だったとか。

長谷川:えぇ、放送の数ヶ月前の年末まで、ずーっとキャラデザ作業でしたから。何回描いてもダメ出しの連続で。最初のうちの、作画の打ち合わせはすべてラフのキャラデザで行ってましたよ。なかなか決め込めなくて、なんだかんだで1年ぐらいキャラを創るのに費やしました。JCスタッフに制作を依頼しようと決めたのはわりと早かったんですが・・・。
幾原さんも東映の仕事を春まで引きずっていたし、作業はなかなかうまく進まなかったです。だからみんな、ちゃんと集まれることも少なくて。ビーパパスも最初はフロアに机が4基だけポツンとあったきりだったんです。まあ座るモノぐらいは買っとこう、だけど他には何にもなかった。それで僕はずーっとそこで作業して寝る日々の連続。そんな生活・・・うーん最悪だったなあ(笑)。

――それでは最終的に、キャラデザ作業はどのあたりでまとまったのですか。

長谷川:まず別作品を同時に描いてたから、その線を自分で消していく作業が大変でした。あとキャラデザの仕事だけを長い期間やってると、逃げ場がなくなっちゃうんですね。だから同時進行の時期は大変だけど、ある意味ありがたかったところもあったりして・・・。どちらかが煮詰まっても、片方に作業転換できる心の余裕がありましたからね。
『セーラームーン』を降りたくなったのもそれなんですよ。5年近く同じ作品をやってると、物を創る上での逃げ場がなくなる。また、そこでしか評価されない辛さもあったし・・・。仕事の上で身動きできる余裕って必要だと思うんですよ。でも『ウテナ』で、最終的に全然逃げ場がなくなった。とにかくキャラクターはこの作品で最重要課題だったし、それがないと先に進めない切迫感もあった。作業に集中するしかなかったんだけど、産まれるまではしんどかったですね。

――キャラを生み出す作業に、誰かのフォローは無かったんですか。

長谷川:はじめは幾原さんとのキャッチボールでした。自分で描いてる時はベストだと思ってるから、堂々とキャラを提出しますよね。でも「うーん、ちょっと違う」ってダメ出しが何度も何度もあって・・・。さっきも言ったけど最初は『エヴァ』に似てるって、繰り返し言われた。自分では熱くなってるからよくわからなかったけど、冷静になると確かにそう見える。だからまず別作品のタッチを払拭する作業があって、その次はさいとうさんの絵に近づける作業の連続。
すると今度は「お前、コレさいとうさんの絵に似過ぎだよ」ってダメ出しされて、じゃ、どうすりゃいいのよって(笑)。長谷川の個性を出せって言われたけど、それはさっきやったけどダメだったじゃん! みたいな争いはしょっちゅうでした。それでどんどん追い込まれていったなぁ。それからはどこで区切りをつけて決定稿とするか、自分の中でのせめぎあいみたいな感じでした。

――何かによりかかることも無く保証もなく、アニメーションを立ち上げることに不安はなかったですか?

長谷川:不安がなかったといえば嘘になる。当然、最初に生活の最低限保証としていくらか貰っていたけど、作業が具体化するまで基本的には無収入だったし。でもキャラを作るのに必死だったから、生活のことは気にならなかった。実際にまったく家に帰らずスタジオにこもってましたから。それと、自分自身をそこまで追い詰めるとどうなるんだろう、神風が吹くかもしれないって子供じみた期待がどこかにあった気がする(笑)。
正直最初は、そういうギリギリのところで何かが生まれるという、ある種の破壊的な発想に憧れてはいたけど、実際はそうじゃないことを思い知った。やっぱりその時の作り手の辛い部分がにじみ出ちゃうものでね。芸術家ならそれを個性にしている部分もあるし、だからこそ名作が完成するんだという考えもある。でもアニメは娯楽だからそれじゃダメだと思うんですよ。
だから逃げ場のない時期に描いたキャラの表情が結果的にユーザーに対してハッピーな顔をしてないな、と。そう思った時期は精神的にはかなりキツかった。

――それはずっと?

長谷川:オンエアの最初の時期はずっとそう思ってました。描かなきゃ生きていけない、そんな感情で描いたキャラはやっぱ楽しそうじゃないんですよ。かと言って楽しく描けって言われても、それは技術の問題じゃないから難しいんですよ。

――放送時はどんな生活をされてたんでしょうか。

長谷川:もう、延々スタジオにいました。あんまり楽しい話じゃないですよ。精神的にスレスレの生活だった。確かに絵がないと始まらない作業だから、しっかりやんなくちゃとは思ってたけど、どこか人間としてのリミッターが働いてしまう。おかげでいろんなお酒の銘柄を覚えました(笑)。外へ独りで飲みに行ったり、僕が眠るときに周りが作業してる場合とかは、気になるから強制的に酔っぱらって寝ちゃったり・・・。放映が終わるまで丸2年ぐらいそんな生活だった。やがてどの境地に行き着くかというと・・・坊さん(笑)。
放送の後半はみんなに修行僧って呼ばれてました。なんか主張が削ぎ落とされていって、最後の方は持てる欲望はお酒だけになりましたね。

――凄まじいですね。何がそこまでさせたんでしょうか。やはり自分だけじゃなく、他の人たちが関わってるというところでしょうか?

長谷川:人のためにやってる、という思いはありませんでした。何度も言うけど、僕には逃げ場がなかったから。仕事をする上での保障の問題も含めてですけどね。僕はずっと基本的にフリーのアニメーターなんですよ。『~セーラームーン』から次へ次へ、仕事のステップ変えることが出来たのも、やっぱりひとつひとつの仕事でそれなりに実績を残せたからだと思う。だから『ウテナ』で結果を出さないと次へつながらない、という崖っぷちの恐怖感をずっと持っていたから。だからあの辛い作業を耐え抜いたんだと思う。
フリーランスの仕事の基本は常にその場の実績がすべてですからね。クールにその仕事だけでサヨナラって場合も多いですし。だから多少の追い込みは必要です。でも・・・ちょっと追い込み過ぎた感も有りですね(笑)。

――『ウテナ』のテレビシリーズが動いていた2年間、作品やキャラに対してどのように思い入れや視点は変わっていったんでしょうか。

長谷川:作品に関して言えば、最初に決めたのからあまり変わってないですよ。あと僕個人としては作品を作る過程で、どこでどう動いたらどこがこうなるんだ、という制作上の俯瞰的視点は勉強できました。版権物がユーザーに受け入れられる流れとかね。
絵だけ描いてると、そういうのって解らないんですよね。「絵だけ上手くなればそれでいい」みたいな・・・。だけど『ウテナ』の作業では、絵の提示の仕方など絵画技術だけではない、キャラクターデザイナーとして作品づくりの進め方を学ばせてもらいました。絵で言えば、ちょっと後半ふっきれた感はあります。前半は少女マンガを意識し過ぎちゃってガチガチだったけど、最後の方ではいわゆるハレンチなタッチになっていった(笑)。自分でもそういうことができるゆとりが出てきたんだなと感じました。その方が結果がよかったしね。幸か不幸か作品的にもそれでOKみたいな展開にもなった。
だから夏以降は気分的に楽でしたよ。版権物のポスターでも、ちょっとキャラの肩を出して描いてみたりとか。その方が格段にかっこよくなった。
やっぱり描く上で余裕は大事です。カット発注でも設定やポーズや小物まで指示された発注はよくあるんですが、少し余裕のある設定をもらった方が後からもいいと思える出来です。まあクライアントの提示した発注を確実にあげないとプロとは言えないんですけどね。

――最近のお仕事は余裕を持って作業されてますか。

長谷川:はい。・・・そうしようと努めてます(笑)。
絵描きって、つまるところ手先だけの狭い視点で仕事してるじゃないですか。だからどうしても作業中は視野の幅が狭くなっちゃう。なので意識してないと本当にドツボにはまることが多い。だから自分の仕事にクールに距離を置いてってわけじゃないんですけど、そういう精神的な幅は大事にしたいですね。またそれは、長く続けるための秘訣だと思う。
例えば「もうこれで俺はダメだ」と思って突然郷里に帰っちゃう人もいるけど、大半はそのダメってのは人が決めたことじゃなくて自分でそう思いこんじゃってる場合が多い。仕事を続けていくには、何か失敗してもそのダメージに足をとられずに、次のステップに移行できる気分の余裕を見いだせることが必要だと思う。「これがダメでもこっちがあるよ」という選択肢をたくさん持っていた方がいい。
かといって「ダメでもいいよ」ということではなく、ひとつの仕事はきちんと責任を持ってやる。僕もこれからひとつのものにのめり込むことなく、いろんなタイプの仕事を大切にやりたい。その方が気持ちも楽だし、結果も出せますからね。
意外とね、そういう幅のあるリラックスした状態で描くと自分の予想を越えた出来のものがあがる時がある。だから自分の引き出しを常にいろんな方向に空けておきたいですね。

――長谷川さん自身、余裕を作るための具体的な対策は?

長谷川:映画をけっこう観ていました。作業中、煮詰まると独りになりたい気持ちが強かったんです。美術館とか、スタジオじゃないどこかの別の場所へ行ったりとか。

――このプロジェクトの発端者であり、同志の幾原監督からは励ましの言葉などはあったんですか?

長谷川:(苦笑) ネコニャンニャンとかそんなことばっかり言ってたなぁ。いや、励ましてくれた覚えってあまりないですよ。自分が「くそっ、死にたい」とかそんなことばっかりボヤいてましたから。言葉はあんまり残ってないけど・・・まぁこっちが追い込まれた分、広い心でいてくれたから・・・。助かったなとは思います。
自分でも制御のきかない、少し突っ走った絵を描いた時期があったりしたけど、それをとやかく言わないでくれましたね。後でチクッと、ダメを出されたこともありますが・・・。今から思うと相当子供じみたリビドーにまかせた仕事をしてたな、と思う事もあります。みんなそれに全然黙ってたわけじゃないんですけど、こちらの作業のテンションを折っちゃうようなことはなかたです。
あとね、スタジオにずっとこもってると、大してドラマチックなことなんてないんですよ。自分が追い詰められた時、誰かに肩をポンと叩かれて励ましの言葉に後光が差していた・・・みたいな。全然なかったですよ(笑)。でも自分自身、作業は苦しいままだったけどだいぶ気分的にはふっきれたところがありましたからね。ちゃんとした励ましがなくても何とかうまくやれたと思っています。

――いつの間にか精神的な余裕が生まれたんですね。縛られていない分スタッフへの絵の提示の仕方もだいぶ変わったんじゃないですか?

長谷川:どうかな!?あまり変わってないとは思っているんですけど。やってる時はプロである以上、どんな時でもその時にベストなものを描くものだ!描いていいんだ!とは言いますけど。先程も言ったように、その方がいいものが描ける。途中の僕の絵なんて「キャラのアゴがとんがってきたな」「鼻が高い」「目が大きい」とかみんな心の中では思ってたらしいけど、描いてる方はそう思ってなくて・・・。その辺、みんなわかっているんだけど、その時はあえてつっこまなかった。ありがとうと言いたいです(笑)。もし作業中に言われてたら絶対、ヘコんで手が止まってましたからね。

――テレビ版『ウテナ』がひと段落したときの心境は覚えていますか。

長谷川:いままでしゃべったようなことを、気づいたかなと。あとは終わってみて、仕事をする上での自分の状態っていうものを冷静に観察できるようになった。まさに悟りを開いたってヤツですかね(笑)。ますますイメージが坊さんに近づいてしまいました。あ、でもすぐに劇場版の話が来たんですけどね。まぁ、具体化するまでに1年近くあったから、他の仕事を手伝ったり・・・。
あとはインドに行ったり、パソコンいじったり。引き出しがカラになってたから、少しでもモノを溜めておこうと・・・と言っても、劇場版でまた引き出しがカラになるんでしょうけどね。


(1999年4月14日 ビーパパスにて)
 
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